託 馬 野
つくまの
   笠女郎大伴宿禰家持に贈れる歌 三首

託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出でにけり    巻三  395

○大意 託馬野に生えている紫草を衣に染めて未だ着ないうちに人に知られてしまった。
   

   譬喩歌

階立つ 筑摩左野方 息長の 遠智の小菅 編まなくに
 
い刈り持ち来 敷かなくに い刈り持ち来て 置きて
 
われを偲はす 息長の 遠智の小菅                巻十三  3323

○大意 筑摩のサノカタや、息長の遠智の小菅を、編みもしないのに刈って来て、さてそのままに捨ておいて(捨てておかれた私に)恋しい思いをさせるとは。私はその淋しい息長の遠智の小菅です。
いま、この二首の頭注を『古典文学大系』から写しとると、

  託は名義抄にツクの訓があるので「ツクマノ」と読む。滋賀県坂田郡米原町に筑摩がある。一説
  
  肥後国託麻郡。(現在熊本県飽託郡託麻村)
  
  サノカタ ー種の蔓植物。フジの類という。アケビであるともいう。地名説もある。
 
 筑摩とは20キロメートルはなれた彦富に往む小西久二郎氏に託馬野の所在をたずねると、一応筑

摩神社のある附近であるという。近江輿地志略には、鳥井本、梅ケ原村とあるけれどもというと、筑

摩神社は、かつて島状の地形で現在の米原駅のあたりまでは、入江内湖といって、内湖がひろがって

いたのだから、「ツクマノ」というぽどの野はなかったのかも知れない。現在紫草の自生していると

ころは、近江では綿向山の南斜面の日あたりのよい所だけとなっているが、なるほど、梅ケ原あたり

の山麓の小さい野には、紫草は生えていたかも知れない。石田三成の佐和山城も、その麓まで湖が迫

っていたという説がありますね。という返事が返って来た。

 そこで現地にたしかむるべく、昭和55年2月3日、節分の前の朝の冷えに身をふるわせて彦根駅

に降りたつ。国体開催の事前準備か、彦根駅前は拡張整備工事の資材があちこちに積まれている。彦

根市八坂に往む山村金之肋の案内で、米原町磯の旧家、磯崎文五郎氏宅にむかう。かつての松原内湖

と入江内湖を境う磯崎神社の岩山。それは、犬上郡と坂田郡の境でもあった。今日は久しぶりの凪と

かで、若狭境の山々の白雪が、まぶしいくらいの光を放って湖の彼方に鎮もる。

 「入江内湖がありましたから、託間野というぼどの広みは、筑摩神社の周辺にはなかったのではな

いでしょうか」「あとで御案内しますが、昭和19年から、25年に及ぶ干拓で、鉄道から南に五百

反の土地がひらけました。その工事の結果弥生時代、古墳時代、さらには、平安時代の履物や田下駄

の類、彩色された陶器片まで出土しています。万葉の時代は当然陸地であったわけです。五百反の広

みがあれば、野と称してもはずかしくないでしょう」

 こうした問答から始まって、古い記録に、伊勢の海に沈んだといわれる、猿田彦神が、近江の白髭

神社に祀られる由縁を、「タコ」に導かれて云々と記されている。それは「団平船」をタコと称して

いたこと、その八挺櫓を大阪ではいまもタコと呼びならわしているが、それに乗って、ここ天の川が

流れ込んでいた入江内湖から白髭へ渡られたのだという伝え、あるいはまた、天の川は荒れ川で、三

年に一度はあふれ出し、井伊氏の始祖が築かれた控え堤が今もそれを防ぐ力をもっていること、山内

一豊が領主であったころ千軒の家を流したこともあったという。こうして荒れ出した息長川の水に潰

って、稔らぬ田のことを、オチと称しているのではないかということも聞いた。

 昭和19年から25五年に亘って入江内湖は干拓されたのだが、その作業のため、遠く北海道の農

業学校の生徒をはじめ各地から人々が動員されてきたという。そうした人々へ完成記念として贈った

干拓地の地図をひろげて磯崎文五郎氏は説明する。五百反の田がひらけましたが、古い矢倉川が内湖

へ入るところに堆積したひろみがあり、そこへ近江神宮から御分霊をいただいて来て神社を作りこの

地の氏神としました。などの説明をきいているうちに、図上西に位置する梅ケ原と対称的に入江内湖

の真東に位置する筑摩神社の名を冠しか、水没平野の名託問野の名が伝えられたのではないかという

考えが浮びはじめた。

 磯崎文五郎氏は、わたくしたちを業内すべく自動車に乗り込む。湖岸道路を北へ、筑摩神社に隣り

する広大な創価学会の建物を右折して、すぐそこに、入江内湖干拓地出土遺物の展示館がある。二階

建のコンクリート造り。階段を登ると、展示室。その約三分の一は、安土の大中干拓地から得た縄文

系のものだが、それ以外はここの干拓地のもの。おびただしい石鏃、石器類、土器のたぐいが、よく

整理され展示されている。山村金之肋は職業がら早速、漁具のたぐいの前に立つ。数十個の土錘。そ

の一点をさし、これだけの大きさの士錘(約10センチ)だと、地引網のものですねという。その言

葉に従って土錘をながめると幾度か使われて、磨滅したあとがある。大きな人々の集団が、共同作業

をしたことをしのばせる。わたくしは展示物の中の勾玉、筒玉、石釧の破片に注目する。頗る良質の

もので、これを用いた豪族の力の大きさを実感する。石釧は、よほど立派な前方後円墳からでないと

出土しそうにないものだ。すくなくとも四世紀後半には、そうした豪族が、ここ入江内湖に存在して

いたのだ。展示室の列品のなかで時代の下限を示すものは釉薬のかかった陶器片と、下駄、田下駄の

類。その一つは青磁の最初期のものではないかと推量される青い秘色の陶片。外来文化の伝播が意外

に早く濃度を濃く伝えていることが実感される。田下駄には、平安時代との説明が付されている。案

内者の磯崎文五郎氏はこの干拓田の南端、丘陵と接するところから近江では最大の鴟尾の瓦を発見し

たことを教えてくれた。これも大豪族の存在を示すものであろう。

 ここで私は「允恭天皇紀」七年十二月の記事を思いおこす。

 新室うたげの舞をなさった皇后、忍坂人中姫が、礼事として「娘子奉る」ということばをおっしや

らなかったのを、天皇がしいてそれを言わしめられ「誰を奉るのか」と迫られた。皇后はやむなく

「妹の衣通姫を奉らん」と答えられた。日本三美人の一人といまなお伝えられている衣通姫を奉ろう

とおっしやったのだから、いなやはない。早速、舎人中臣烏賊津使主を近江の国坂田へつかわされた

という。

 鳥籠の山の頂で系図を示したが、舒明天皇の御父は、忍坂彦人大兄王。この皇后の御名は忍坂大中

姫。お二人とも近江坂田郡とかかわりある御方である。忍坂と坂田はどこかでつながりがあるのであ

ろうか。

 入江内湖の出土品を眺めるうち、例えばそうした大豪族がこのあたりに蟠居していたのではないか

と思わせる質量があった。

 そこで笠女郎の歌にもどる。三首の歌は、男性家持の関心のうすれたのを嘆く歌。允恭天皇は衣通

姫を迎えられたが、姉の皇后の嫉妬に悩まされ、なかなか思いがとげられなかったという。はじめ藤

原の宮におかれたが、さらに遠く和泉の日根野に移されたという。悲恋の代表的な伝えとして、広く

恋する女性に大きな教訓を与えていた説話であったようだ。笠女郎の場合も、愛情のうすれた家持に

贈るために、こうした伝えをひびかせる地名、託馬野が必要なのではなかったのか。

 また、3323の長歌についても同じことがいえるのではなかろうか。「左野方」は、蔓性植物を

意味する「サノカタ」と訓むより、湿田を意味する「サヌカダ」と訓むべきではなかろうか。越も、

冠水で不稔となった田と解した方が面白そうだ。

 磯崎文五郎氏も幼少以来しばしば経験したという天野川の氾濫は、平安時代以降、昭和20年まで

、五百反の広さの入江内湖を造ってしまっていたのだが、平安以前もそうした傾向をもっていたので

は。現に資料館の田下駄はそれを実証しているのではないか。冠水により放置された田に繁茂しだし
た萱のたぐい。それをうたいあげたのが、この牧歌的な長歌となったのでは。

 「日本書紀」は、允恭天皇の訪れの少いことを嘆いた衣通姫の名歌。


  わが夫子が来べきよひなりささがねの蜘蛛の行ひこよひしるしも


を伝えている。衣通姫のなげき歌を、姫の故地、坂田の人々は忘れることなく伝えていたにちがいな

い。そうした嘆きをこの長歌に重ねあわすとき、はるか遠くの存在であった万葉の譬喩歌が、水没以

前の農民の生活とかさなりあい、この長歌が、土のいぶき、泥のいぶきをしみじみとひびかせ、私た

ち近江人とかかわり深いものとなってくるのだ。
託馬野  JR東海道本線「彦根駅」下車・近江バス(彦根→長浜)「筑摩」下車
山村金三郎 著「近江路の万葉」より 編纂[近江神宮]
近江路の万葉
http://www.oumijingu.org
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