崇  福  寺

 京阪電車滋賀里駅におり、滋賀里の集落を抜け、見世の家並みに入る。道に添う小溝は豊かな水量をもって流れくだる。じっとみつめていると、花崗岩がさされ石となり、さらにこまかくくだかれた微塵(みじん)が、光となって流れくだっているようだ。やがて右手に百穴(ひゃくあな)古墳群の開口部が、白くまたくらく竹や、雑木のひまひまに認められる。このあたりからは、道のべの草の量が次第に濃くなってくる。幅一メートル余りの川に添う道を爪先のぼりにのぼってゆくと行手に「おおぼとけ」と、呼ぶ弥勒菩薩(みろくぼさつ)をまつる小さなお堂。にこやかに笑みをたたえた、頬ゆたかな石仏は高さ四メートル程と、景山春樹氏の『近江文化財散歩』は記している。時代は室町時代。そこを過ぎると、雨のとき山水の流れが掘りくぼめている道がふたまたになる。「伽藍配置図」の案内板でいにしえの志賀の山越えの道をとると、三重塔あとへ至る。金堂、講堂、小金堂趾が、二つの小川をはさんだ三つの小さなたいらを成しているらしい。豊かな水は、ここでは道をも流れひたしている。戦後すぐに植えられたのではないかと思う杉の植林の山肌を縫う急坂をのぼり切ると思わぬ坦(たい)らがある。礎石のならびは、それぞれ傾きをもってはいるか、整然と並ぶ。十数年前、香川進をはじめ地中海の人々とここをたずねたのはゴールデンウィークであった。白い花のそこはかとないたたずまいを「しでざくらです」といったのは、吹田の山ロ最子であった。ふりかえると、湖がすこし見わたされる山峡。『万葉集』には、この山寺に伝わる一首がある。

     穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌一首
    
  後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道のくまみに標結へわが背  巻二 115
 (おく)          (し)       (ゆ) 

  ○大意  あとに残って恋い慕っていずに、追っていって追いつきたいのです。道しるべを曲り       角に結って下さい。あなた。

『万葉集』で、寺にかかわる作品はあまり見あたらない。この一首は、その珍しい一首。
 作者、但馬皇女は、天武天皇の皇女。母は鎌足の女、氷上娘(ひかみのいらつめ)である。
天武天皇の長子高市皇子の妃となった。和銅元年六月二十五日に薨じておられる。この歌を贈られた穂積皇子は、天武天皇の第五皇子。母は、蘇我赤兄の女、大■娘(おほぬのいらつめ)。霊亀元年七月二十七日、知太政官事一品の位をもって薨じられている。
 この歌は持続天皇の御代の歌であることは巻ニの分類でわかるが、正確に何年に作られたかは、正史に記載されていないので判明しない。詞書に「勅して志賀の山寺に遣はす」とある記事について、賀茂真淵は「左右の御歌どもを思ふに、かりそめに遣はさるる事にはあらじ、右の事顕れたるに依て、此寺へうつして法師にしたまはんとにやあらむ」といっている。岸本由豆流は、「持続・文武の御代、たえずこの皇子の位を昇し、封をもましたまひし事ありしに、法師にとて遣はされしにはあらぬをしるべし。案ずるに、造立(ぞうりふ)の事か、またはさるべき法会(ほうゑ)などありて、勅使に遣はされしなるべし」と真淵の説に反対している。
 真淵が「左右の御歌ども」といっているのは、
     但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子をしのぶ御作歌一首

  秋の田の穂向きの寄れること寄りに君に寄りなな事痛かりとも  巻二 114

○大意  秋の田の穂の向きのひと寄りに寄っているように、ただひた向きに君に寄り添いたい。      たとい世間の取沙汰はひどかろうとも。

     但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、ひそかに穂積皇子に接ひて、事すでにあらはれて作り
     ましし御歌一首。

  人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る  巻二 116

  ○大意 人の噂があれこれとひどいので、自分が生まれて、いまだ渡ったこともない朝の川を渡っ      て逢いに出かけることである。の二首をさしている。

 この一連の三首から、穂積皇子と但馬皇女の関係は明らかであろう。114番の歌は正式には、高市皇子の嫡妻でありながら、道ならずも、異母兄、穂積皇子を恋いしたい、116番の詞書にもあるように、不倫も不倫、夫ある身でありながら、肉体関係にまで発展してしまったのだ。だから真淵は、持続天皇が穂積皇子を罰して、都から遠く離れた志賀山寺へ流したとしているのだ。
 
 志賀山寺という名は、『続日本紀』にも見えている。大宝元年八月四日の記事がそれである。
  
 さて、岸本由豆流は真淵の流罪説に反対しているのだが、ここにも確実な史料は存在しない。持続・文武朝に穂積皇子の昇進、封目の授与などから、罪せられた事実のないことを裏付けようとしているのである。この学説に加担しているのは、山田孝雄博士である。
『万葉集』の巻一・巻二は、勅選説さえあって、よく整理編集されていることはほとんど定説化されている。さすれば、114、115、116の制作年代順は、114が古く、115が、これに次ぎ、116が新しいとしなければなるまい。すると、但馬皇女が穂積皇子と肉体関係を成立したのは、志賀山寺から、藤原宮へ帰られてから後のこととする方が正しいのではなかろうか。『古典文学大系』(岩波書店)の頭注にも、「経歴からみて罰せられたとは思われない」とあるが、歌の配列順からも、当然処罰されて志賀山寺へ来られたのではなく、法会(ほうえ)のため、ことに、持続天皇にとっては、父君である天智天皇の法会を、近江朝の遺臣蘇我赤兄の孫にあたる穂積皇子を勅使として、派遣されたと考える方がよろしいのではなかろうか。天武天皇の系統の方々にたたる怨霊の最たるもの、それはおそらく天智天皇と大友皇子に違いない。そして、その怨霊をなだめるために、さまざまな対策が講じられたに違いあるまい。まして、草壁皇子の夭折を眼前にせられた持続天皇のありようを思うとき一層近江朝側、そして近江朝にゆかりふかい崇福寺に対する畏敬がしみじみと感じとられる。天平年間、聖武天皇が、ここへ参詣されたと歴史書は伝える。これも、こうした一連の事実の上に立ってみると、理解しうる何ものかがあるように思える。
 いま、春とはいえ、松落葉ふかい、崇福寺趾に立ちつくすとき、古代皇統の暗い一面がありありと実感されてくる。そうした人間関係のひずみの中に唱和された、但馬皇女の叫び。赤裸々で、自己暴露の最たるもの。私どもでは、とうていこういう倫理感から逸脱したことがらは、たとい事実であっても詠いだすわけにはゆかぬ。それがまことに直接的に発表され得たのは、如何なる心のあり方であったのだろうか。
 そうした意味で、この一首を眺めるとき、一人の女性の叫びではなく、天武の血筋に崇る何者かが、皇女をして叫ばしめているのではないかとさえ思える。
 そしてこの一首の題詞が崇福寺という正式の名称を使わず、志賀山寺と表記しているのもこうした崇りをおそれてのことではないかと思いあたるのであった。
 このお二人の関係は、但馬皇女の薨去で幕を閉じる。そしてその時穂積皇子は、

     但馬皇女薨(かむあがり)ましし後穂積皇子、冬の日雪の降るに、温かに御墓を見さけまし     て、悲傷流涕し作りましし御歌一首
 
  降る雪はあはにな降りそ古謡の猪養の岡の寒からまくに    巻二  203

の一首をものしておられるのである。幽明境をことにして、なお二人の間には通わせあう何ものかがあったのであった。

 (志賀山寺−京阪電鉄石坂線「滋賀里駅」下車)
山村金三郎 著「近江路の万葉」より 編纂[近江神宮]
志賀山寺 
 太政官処すらく、近江国志我山寺の封、天武天皇四年庚子の年に起って計るに卅歳に満つ……。
 志賀山寺の正式名は崇福寺。この寺は、先にもふれたが、『扶桑略記』天智天皇七年に建立された。聖武天皇天平勝宝元年閏(うるう)五月二十日の記事には、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺・法隆寺・弘福寺・四天王寺についで崇福寺が出てきており、あしぎぬ二百疋(ぴき)・布四百端・綿一千屯・稲十万束・墾田一百町がほどこされている。
 また、延暦十七年には定額十大寺に列し、平城天皇は、先帝桓武天皇の斎会(さいえ)をこの寺に催し、嵯峨天皇も行幸しておられる。西暦九二一年十一月には、焼失した本尊弥勒菩薩を新造し供養する記事があり、九六五年、再度の失火全焼の後、寺運は衰退の一途をたどり、後、園城寺に附属して廃絶してしまうようになる。
 昭和十四年南志賀廃寺の発掘調査と並行して、この寺の調査が行われていたが、昭和十五年三重塔心礎から金銅製舎利容器が発見され、国宝に指定された。二十数年前、当時滋賀県技師をしていた宇野茂樹氏の供をして、私は、近江神宮社務所でこれを拝見したことがあった。千三百年を経た黄金の輝きもさることながら、舎利を収めた、瑠璃のみどりが、いまもなお私の印象に、たしかにとどまっている。
御祭神・御由緒
御皇室と近江神宮 
境 内 案 内
御祈祷案内
年 中 行 事
神前結婚式
時計博物舘
大津京年表 
近 江 暦
近江勧学館
日供神饌講
交 通 案 内
先 頭 頁
近江路の万葉
http://www.oumijingu.org
近江路の万葉