前川荘司邸
前川荘司邸は、八木邸から通りを挟んですぐ東隣にあります。浪士隊と分かれ京都守護職御預となった後、芹沢鴨が前川邸に現れ、強引に屋敷を借りあげてしまいます。ここが芹沢に目を付けられたのは、八木邸のすぐ近くだったことに加えて、畳を146畳敷けるほどの座敷があり、勝手口から中庭にかけて馬4頭が並んで入れたというほど広壮な屋敷であったためと言われています。前川家の家人は、新選組と入れ替わりに六角通りの両替店へ移ってしまい、この屋敷には近藤一派が移り住んで来ます。文久三年の芹沢鴨が暗殺された後は、この屋敷が主たる屯所とされました。内部の保存状態は良く、山南啓介や野口健司が切腹した部屋、古高俊太郎を拷問に掛けたという地下室、近藤勇が落書きを残したとされる雨戸などが残っています。
右の写真の出格子のある部屋が、野口健司が切腹したと伝えられる部屋です。現在の出格子は新しいものに取り替えられていますが、別に保存されている古い出格子には、新選組隊士が付けたとされる刀傷がいくつも残っています。ただし、残念ながらこれは普段は見る事が出来ません。
芹沢系最後の生き残りであった野口の最後については、暗殺されたとする説もありますが、近江中羽田村で起こった新選組の名を騙る水戸浪士が起こした騒動の責任を取らされたとする説が有力な様です。しかし、これはこじつけに近く、実際には近藤系とは思想の異なる芹沢系の隊士を一掃するための、最後の仕上げだったと思われます。


壬生寺
壬生寺は律宗の大本山。開創は奈良時代と伝えられ、991年(正暦2年)に三井寺の快賢僧都により復興されました。仏師定朝による地蔵尊を本尊とし、1300年(正安2年)円覚上人が仏の教えを身振り動作に仕組んだ壬生狂言を創始したことで寺運は隆盛を極めます。しかし、1962年(昭和37年)の火災で本堂を始め本尊や寺宝類を焼失したため、1967年(昭和42年)に本堂を再建し、さらに1970年(昭和45年)に奈良唐招提寺より地蔵昔薩(重要文化財指定)を迎えて現在に至っています。
境内にある狂言堂では毎年2月2日と3日の節分と4月21日から29日まで壬生狂言が行われます。節分会の参詣者は素焼の炮烙に生年月日や氏名を書いて奉納し、その炮烙は4月21日からの狂言で毎日序曲として最初に上演される「炮烙割り」で、危払いのためにことごとく割捨てられます。 
新選組は、この境内で相撲の興行を行ったほか、隊士の訓練を行いました。最初は長沼式調練の長閑なものでしたが、次第に洋式の調練に変わっていって激しさを増し、寺では大砲の振動で瓦が割れたり、障子が破れたりと難渋したようです。
また、沖田総司は、この境内で近所の子供達と鬼ごっこなどをしてよく遊んでいたと伝えられています。

公開時間 8:30〜16:30
拝観料:100円
壬生界隈 其二


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前川邸の位置
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山南啓介が切腹した部屋は坊城通りに面した部屋で、当時は通りに面して出窓があり、山南と親しかった島原の明里が山南の切腹の知らせを聞いて駆けつけ、窓越しに涙ながらの別れをしたと伝えられています。残念ながら今は写真の様に板塀になっていて、当時の面影はありません。
前川邸は、今は株式会社田野製袋所となっており、生活の場でもあるため非公開となっています。ただし、土曜と日曜には門内に入る事が出来、パネル展示の閲覧や土産物店で買い物をする事が出来ます。

前川邸内部を写した絵はがき 1組700円 など
野口健司についての詳細(ねこづらどき)