黒船の来航以来日本中に吹き荒れた尊皇攘夷の嵐は、安政の大獄で大弾圧を受けた後、井伊大老の死と共に再び息を吹き返し、天誅の名の下に京都を無法地帯へと追い込みます。幕府は、これに対処するために京都守護職を置き、さらに実戦部隊として新選組を召し抱え、過激な尊攘浪士たちを取り締まりにかかります。壬生は、新選組が誕生し、最初に屯所を置いた土地で、今でも彼らの残像が見え隠れするような町です。
壬生界隈
新徳寺は、臨済宗に属し、新選組の母体となった浪士隊の本営が置かれた場所です。文久三年二月二十二日、将軍警護のために組織された浪士隊が、江戸から中山道を経て京都へ到着します。その夜、浪士隊結成を幕府に献策した当の清河八郎が、「浪士隊の主旨は将軍警護にはあらず、朝廷の親兵となる事にある。」と宣言します。幕府の部隊である筈の浪士隊を朝廷の兵力にすり変えるという様な際どい策略でしたが、清河が学習院に提出した建白書が孝明天皇の叡聞に達する所となり、浪士隊は御製を賜ります。驚いた幕府は、横浜警護を名目に浪士隊の江戸への帰還を命じますが、あくまで将軍の警護を主張し、京都に残留した一派がありました。これが、芹沢鴨、近藤勇達で、新選組が産声を上げた瞬間でした。非公開。
新徳寺
八木邸は、壬生郷士の屋敷で、新選組の最初の屯所が置かれた場所です。当初は浪士隊の京都における宿舎のひとつとして、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら13名が宿泊していました。その後、浪士隊と別れ、京都守護職御預となった彼らは、「壬生村浪士屯所」と書いた看板を八木邸の門に掲げ、当家に居座り続けます。新選組を名乗ったのは「八・一八の政変」からで、市中取り締まりの命を受けたのもこの日でした。近藤勇の一派は早い時期に前川邸に移っていため、この頃ここに居たのは芹沢一派です。芹沢鴨は志士としての活動歴が古く、新選組における地位も筆頭局長として近藤勇よりも上位に居ましたが、粗暴な振る舞いが多く、人々の不興を買うようになり、会津藩の内意を受けた近藤勇達によって粛正される事になります。文久三年九月十八日の夜、角屋での会合の後、泥酔して眠っていた芹沢鴨達を刺客が襲います。当夜目撃した八木家の家人によると、刺客は土方歳三、沖田総司たちであったといいます。
八木邸
平山五郎と芹沢の愛人のお梅はその場で即死、芹沢は斬りつけられながらも起きあがり、隣の部屋へ逃げ込みますが、部屋の入り口にあった文机につまずいて倒れたところを、上から襖をかぶせられて自由を奪われ、滅多突きにされて殺されてしまいます。八木邸には、このときの文机が今でも置いてあり、またそのときに出来たという刀傷も残っています。当夜一緒にいた平間重助は逃亡し、そのまま行方知れずとなっています。また、平山と寝ていた糸里は、たまたま厠へ行っていたため無事でした。暗殺のあった翌朝、近藤勇が何も知らない様子で八木邸へ駆けつけ、長州藩の放った刺客の仕業と断定しました。この事件の後、新選組は近藤勇以下試衛館の面々が支配するようになります。
芹沢暗殺事件の後、八木邸は主として平隊士の宿舎となり、屯所が西本願寺に移されるまで続きます。その後も調練は近くの壬生寺で行われた事もあって、隊士が遊びに来る事が度々あったようです。
現在、八木家は、京都鶴屋という和菓子屋を経営されており、屯所跡のすぐ前に店があります。屯所餅 五個 700円 など
公開時間 午前9時から午後5時まで
見学料 大人:1,000円(抹茶、屯所餅付き)
中・高生:1,000円(抹茶、屯所餅付き)
中・高生:600円(拝観のみ)
八木邸の位置
新徳寺の位置
八木邸パンフレット
八木邸の門
京都鶴屋前、八木邸への通路
其の四