・十二段家
キヌ美粧室から花見小路へ出てすぐ右手に曲がり少し歩くと右手に十二段家という看板が見えてくる。この店が、日本で最初にしゃぶしゃぶを出した店である。
十二段家花見小路店
創業100年を超える老舗。しゃぶしゃぶの他に、お茶漬でも有名。写真はそのお茶漬けがメインの花見小路店で、本店と違って気楽に入る事が出来る。

しゃぶしゃぶ 5000円
名物茶漬け  1580円
十二段家花見小路店の位置
十二段家ホームページ
・一力亭
十二段家からさらに歩くと四条通の手前に赤い壁が見えてくる。ここが、最も有名なお茶屋である一力亭である。
一力亭
仮名手本忠臣蔵にも登場する伝統のあるお茶屋。店名は「一力」だが、暖簾の文字は「万」となっている。これは、元々この店が「万屋」という屋号であったのだが、芝居の影響で屋号が変わってしまったという経緯を物語る。

この芝居では幕府への遠慮から、実在の赤穂義士の名前を変えて架空の人物として登場させている(大石内蔵助が大星由良助など)のだが、その流れでこの店も「万」の字を二つに分けた「一力」という屋号に変えてあった。ところが、この芝居が大当たりを呼び世に知れ渡るようになると、実在のこの店の屋号までが芝居の中で使われた「一力」という名で呼ばれるようになったと言うのである。

この店はまた、一見さんお断りの格式高い店でもある。ここに入るのには、常連さんの紹介が必要だ。
一力の位置
・ギオンコーナー
一力亭から花見小路を元来た方向へと引き返す。十二段家を通り過ぎなおも進むと左手にお城のような建物が見えてくる。これが弥栄会館で、ここの一階にギオンコーナーがある。
ギオンコーナー
祇園の伝統芸能を手軽に紹介するために作られたスポット。茶道・琴・雅楽・狂言・舞妓の京舞・文楽の実演を見る事が出来る。ここに来れば、舞妓と確実に出会う事が出来る。同じ敷地内に「都おどり」行われる甲部歌舞練場がある。
期間:3月1日〜11月29日
時間:19時40分・20時40分の2回
料金:2800円
弥栄会館は昭和11年に白鷺城をモデルに建てられたもので、当初は映画館やダンスホールとして使われていた。もう知る人は少なくなったが、ここの屋根と弥栄中学校の屋根は意匠が同じである。今は取り壊されてしまったが祇園石段下のローソンの場所にあった八百文のビルとともに、祇園町の雰囲気を壊さない様、3者で話し合って同じデザインで統一したものである。次々に新しいビルが建つ今の京都にも是非欲しい配慮ではないだろうか。
祇園コーナーの位置
・建仁寺
花見小路を南に突き当たった所にある門をくぐると、建仁寺の境内に入る。散歩道はWINSの喧噪を逃れて、暫く禅の世界に浸ることにする。
建仁寺
臨済宗建仁寺派の大本山。「喫茶養生記」を著しお茶の普及に努めた栄西禅師を開祖とする。1202年(建仁二年)の開創で、寺号は朝廷から年号を賜ったもの。山号は東山。
広大な境内に山内寺院10ケ寺(敷地外にさらに4ケ寺)が立ち並ぶが、創建以来度々の戦火に見舞われ、大半は江戸時代以降に再建されたものである。その中で、勅使門と方丈が重要文化財の指定を受けている。この寺で最も有名な「風神雷神図」は、京都国立博物館に寄託されていて、普段ここには複製が置かれている。

拝観料 500円
建仁寺の位置
建仁寺ホームページ
建仁寺垣
ここはまた、竹を使った建仁寺垣の発祥の地でもある。花見小路から境内に入った所に建仁寺垣がしつらえてある。
・恵比寿神社
建仁寺の境内を西に抜けると大和大路にでる。ここを左に曲がり暫く歩くと右手に鳥居が見えてくる。恵比寿神社だ。
恵比寿神社
恵比寿神社は、栄西禅師が建仁寺の鎮守として1202年(建仁2年)に開創されたことを起源とする。西宮、今宮と並んで日本三大恵比寿の一つ。毎年一月十日の十日ゑびすには大勢の参拝客で賑わう。都七福神のひとつでもある。
恵比寿神社の位置
恵比寿神社ホームページ
・南座
恵比寿神社から引き返して四条へ向かう事にする。大和大路を引き返しても良いが、この通りは大路とは名ばかりの狭い道路である上に、交通量も多くて歩くにはあまり向かない。このため、恵比寿神社を通り抜け新道通を通る事にする。神社を出て右へ曲がる。そのままずっと北へ進んで団栗通で左折し、川端通へ出る。ここにある小さな広場が団栗公園である。川端通を右に曲がって少し歩くと四条通に出る。その角にあるのが南座である。
南座
1603年(慶長8年)四条河原で出雲の阿国が歌舞伎踊りを始めたのが歌舞伎の起こりとされる。以後、変遷を経て元和年間(1615〜23)京都司所代板倉勝重が四条河原に7つの櫓を官許した。この頃が南座発祥とされる。この7座のうち明治まで残ったのが北座と南座で、明治26年に北座が廃座になるに及んで南座だけが残される事となった。現在の建物は昭和4年に建てられたもので、平成2年に大改修が行われている。
歳末の東西合同大歌舞伎「吉例顔見世興業」が有名だが、この他にも年間を通して様々な公演が開かれている。
南座の位置
南座ホームページ
出雲の阿国像
歌舞伎の祖とされる出雲の阿国については、出雲の鍛冶職人の娘で巫女だったとする説、京北出雲路河原の時宗鉦打聖の娘とする説など諸説あり、確かな事は判らない。京都で一座を率いて念仏踊りを流行らせたという。1603年に四条河原できらびやかな衣裳・刀・脇差をつけた異風な男装で歌舞伎踊りを披露し、これが大評判を呼び今日の歌舞伎の始まりとなった。江戸で踊ったのを最後に、晩年は出雲で尼となったと伝えられる。
この像は、南座から四条通を渡った鴨川べりにあり、平安建都1200年を記念して建てられたものである。台座に、

「かぶき踊の祖 出雲の阿国 都に来たりて その踊りを披露し 都人を酔わせる」

とある。山崎正義氏の作品。
出雲の阿国像の位置
こちらは、花見小路から少し東に入ったところにある本店。本店はしゃぶしゃぶやすきやき、ステーキのコースが専門の高級店だ。

しゃぶしゃぶ梅コース     10500円
しゃぶしゃぶスペシャルコース 21000円
など
十二段家本店の位置
十二段家本店
弥栄会館
弥栄会館の位置
祇園甲部歌舞練場
東京遷都の後、火の消えた様になってしまった京都を活気づけようと、1872年(明治5年)に第2回京都博覧会が開催された。その余興として、行われたのが「都おどり」である。「都おどり」は従来の京舞に西洋のレビューの要素を取り入れた新しい舞台として好評を博し、以後祇園の春の行事として定着するに至る。祇園甲部歌舞練場は、第2回京都博覧会の翌年に「都おどり」の舞台として建設され、1913年(大正2年)に現在の地に移転した。戦後は一時進駐軍によって接収されたが、1953年(昭和28年)に新装会場している。建物は、有形文化財に指定されている。会場の定員は1100名。
「都おどり」は、毎年毎年4月1日から月末まで公演される。
祇園甲部歌舞練場の位置
建仁寺三門
三間二間の二重門。御所を望む楼閣という意味から名付けられた別称である「望闕楼」(ぼうけつろう)の扁額がかかる。階上内部には、観音菩薩像と十六羅漢像が安置されている。門柱の間から見えているのは法堂。
この門は、1923年(大正12年)に静岡県浜松市の安寧寺から移建された。
茶碑
中国からお茶の種を持ち帰り、「喫茶養生記」を著わして茶の栽培と喫茶の風習の普及に努めた事により、我が国の茶祖と仰がれる栄西禅師の威徳を称える記念碑。1983年(昭和58年)4月5日の建立。
また、碑の周囲には、茶の招来800年を記念して、かつて栄西が修行した中国の寺より持ち帰った種から育てた茶の木が植えられており、平成の茶園と名付けられている。
浴室は、禅院七堂伽藍の一つに数えられ、禅堂、食堂と共に三黙堂のひとつとして厳しい作法が定められており、重要な修行の場でもある。この浴室は、1628年(寛永5年)に、三江紹益禅師によって築かれたと伝えられるが、老朽化が激しく、一時解体されていた。現在建っているのは、平成14年3月に古材を生かしながら移築復元したものである。
内部は板敷きで床下に竈を備え、湯気で身体を暖める蒸し風呂になっている。
建仁寺浴室
建仁寺勅使門
建仁寺境内の南の正面に位置する勅使門は切妻造りの四脚門で、扉や柱に矢の跡がある事から矢の根門とも呼ばれる。鎌倉時代の作風を伝え、一説に六波羅第の平重盛の館の門を移設したものと伝えられる。また、別に六波羅探題の北門ともいう。重要文化財に指定されている。
なお、門の屋根は元はこけら葺であったのが、防火上の配慮で銅板葺に改められている。
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