淀から橋本 其二 
石清水八幡宮
石清水八幡宮は859年(貞観元年)、大安寺の行教という僧によって創建されています。行教は、豊前の宇佐宮に籠もったとき、八幡大神の御託宣を蒙り、男山の峯に八幡三所の神霊を招きました。また、この年、清和天皇の命令により、この地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営され、そこに八幡三所大神が正式に御鎮座されました。石清水八幡宮の社号は、今なお男山の中腹に涌き出ている霊泉「石清水」に因んだものです。石清水八幡宮の御祭神は、御本殿中央に八幡大神、西に比淘蜷_、東に神功皇后をお祀りしており、この御本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神と呼ばれています。


石清水八幡宮の位置
1863年(文久3年)4月11日、孝明天皇は攘夷祈願のため石清水八幡宮に行幸されます。これは、主として長州藩が画策したもので、神前にて天皇から将軍へ攘夷の節刀を授けさせ、幕府を攘夷戦争へ踏み切らせようというものでした。無論、幕府が攘夷戦争を実行出来るはずもなく、真の目的は幕府を二律背反の窮地に追い込む事にありました。この狙いを看破した後見職徳川慶喜は、将軍徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉します。しかし、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もります。慶喜は、攘夷祈願をすませた天皇に社前までくるよう召されたのですが、腹痛を理由にとうとう神前へは行かずに済ませてしまいます。病気をかけひきに使った、慶喜の政略だったと言われています。
1864年(元治元年)6月15日、朝廷への陳情を目的とした長州軍が京都を目指し、進発します。彼等は三派に別れ、6月25日頃京都周辺に布陣します。そして、朝廷への陳情を開始しますが、幕府と薩摩藩に押さえられた朝廷は受け付けず、逆に長州藩の追討令が出される形勢に陥ります。長州軍は、7月17日に石清水八幡宮の社務所に幹部が集合し、今後の方針について合議します。集まった幹部は、福原越後、久坂玄瑞、来島又兵衛、真木和泉など20数名だったと言います。会議は、最初久坂が解いた自重論が主流でした。一旦大阪へ引き、京都に向かいつつある毛利長門守が率いて来る二千の兵士を待つというものです。しかし、強行派の来島又兵衛がこれに激しく反対します。彼は、待てば幕府方の防御の態勢が固まるだけで、今すぐ奇襲すべきだと唱えます。そして、なお自重論を説く久坂を臆病者呼ばわりし、単独ででも戦うと言い残し、天竜寺の陣へ去ってしまいます。この来島の暴発はもはや誰にも止める事は出来ず、引きずられる様に会議の結論は開戦へと傾いて行きました。
石清水八幡宮と蛤御門の変
石清水八幡宮と鳥羽伏見の戦
1868年(慶応4年)1月6日、千両松の戦いに敗れ、また淀城への入城を拒まれた幕府軍は、橋本宿へ下がります。幕府軍は、大阪への最後の関門として、男山と淀川に挟まれ隘路となっている橋本から八幡にかけて陣を敷き、官軍を迎え撃ちます。この石清水八幡宮にも、山下の宿院から放生川にかけて大垣藩、桑名藩を中心とした幕府軍の一団が陣取っていました。ここに向かった官軍は長州藩の第二奇兵隊を中心とした部隊でした。戦いは熾烈を極めましたが官軍の制するところとなり、この時の戦いで八幡宮の極楽寺、高良社、疫神堂、乗神宮寺、大乗院、神馬舎などが焼失しています。
淀城址
淀小橋旧趾
淀堤千両松跡
鳥羽伏見之戦跡地の碑
石清水八幡宮
石清水八幡宮行幸
石清水八幡宮と蛤御門の変
石清水八幡宮と鳥羽伏見の戦
橋本宿
橋本砲台跡
天王山
戊辰役戦没者供養墓
ホ ー ム
散 歩 道
壬生界隈
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石清水八幡宮行幸



京都御所周辺
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伏見界隈
其の二
其の三
其の四
淀から橋本
其の二
其の三
大阪の道