1868年(慶応4年)1月3日に鳥羽伏見の戦いが始まった時、時の淀城主稲葉正邦は板倉勝静と共に老中の職にあった人で、淀城は幕府方の重要な拠点の一つでした。このとき正邦は江戸にあり、城の留守は家老田辺権太夫が守っていました。1月5日、富ノ森、千両松の戦いで敗れた幕府軍は、体勢を立て直すべく淀城に向かいます。ところが、権田夫は官軍の働きかけを受け、独断で勅命と称し、幕府軍に対して門を閉ざしてしまいます。この仕打ちを受けた幕府軍は、淀藩の裏切りに悲憤慷慨しますが、官軍の追撃を受けている状況では如何ともし難く、淀小橋、淀大橋を焼いて、橋本へと退却します。このあと、淀城は官軍に対して開城しますが、権田夫は数人の幕府軍が城内に入った責任を取って、弟と共に切腹して果てています。幕府軍にとって淀城を失った打撃は大きく、鳥羽伏見の戦いの趨勢を決めた要因の一つとも言われています。
淀から橋本 
淀城址
1649年(元和5年)徳川秀忠は、伏見城を廃城とし、新たに淀の地に城を築く事を決め、松平定綱に築城を命じました。淀は、水陸の要所であり、かつ京都の喉元を押さえる重要な場所に位置していましす。定綱は1623年(元和9年)に着工し、2年後の寛永2年に竣工しています。当初は、伏見城の天守を移築する予定で天守台が築かれましたが、実際には一回り小さな二条城の天守が移築され、天守台には空き地が出来たそうです。この天守は、残念ながら1756年(宝暦6年)に落雷で焼失し、再建される事はありませんでした。その後、城主は永井氏、石井氏、戸田氏、松平氏と交代し、1723年(享保8年)に稲葉正知が下総佐倉より十万二千石で入封、1871年(明治4年)正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が城主でした。「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は、城内の庭園などに水を汲み上げるための使節で、直径8mもあり、城の西南と北の二ヶ所に取り付けられていました。今は、ミニチュアの水車が堀に設置されていて、当時を偲ばせてくれます。


淀城址の位置


淀小橋旧趾の位置
江戸時代の淀城附近図
淀堤千両松跡
1868年(慶応4年)1月5日、伏見で破れた幕府軍は、淀城の北東、千両松に陣を張り、官軍を迎え撃ちます。千両松とは、豊臣秀吉が植えたと言われる松で、あまりの見事さにその名が付いたとされます。当時、千両松の付近一帯は湿地帯であり、組織的な行動には向かず、防御側には有利だったものと思われます。ここに陣取った幕府軍は、会津藩を中心に、伝習隊、新選組、遊撃隊などでした。一方の官軍は、薩摩藩の砲兵隊、長州藩の奇兵隊、振武隊、鳥取藩の砲兵隊でした。早朝から始まった戦いは熾烈を極め、数時間に及んだと言われます。最初は、幕府軍側に有利に展開しました。湿地に足を取られ、思う様に兵を展開が出来ない官軍側に対し、幕府軍は、新選組を中心に、数次に渡る斬り込みを敢行します。この攻撃により、官軍側は、戦死7名、負傷者40名を出すという損害を被ります。
しかし、やがて福田侠平率いる奇兵隊が橋頭堡を確保すると、形勢は逆転します。銃火器を有効に使える様になった官軍の前に、それまで奮戦していた新選組や会津藩の別選隊は次々と倒されます。ついには壊滅状態となり、多数の死傷者を出して淀へ向けて退却して行きました。新選組では、井上源三郎ほか20数名が戦死、山崎蒸ほか多数が負傷し、出陣した隊員の実に三分の二を失うという惨状でした。今は千両松の地に慰霊碑が築かれ、碑の側には一本の松が植えられています。
この千両松の慰霊碑には、その後のエピソードがあって、1970年(昭和45年)ごろ、競馬場の拡張工事のために、元あった慰霊碑が削られてしまいます。すると、工事に事故が続出するようになり、さらに紫地に誠の旗を持った新選組隊士の幽霊が、「もとの所に返せ!」と毎晩工事現場に現れるようになりました。恐れをなした工事関係者は、慰霊碑を管理する妙教寺に依頼し、盛大に供養を行うとともに、工事終了後、もとあった場所に慰霊碑を復元整備しました。それ以来、幽霊は出没しなくなったという事です。


淀堤千両松跡の位置
鳥羽伏見之戦跡地の碑
納所団地の入り口にあるこの碑は、特に特定の戦跡を示すものではなく、このあたりで繰り広げられた戦いで亡くなった霊を慰める為に建てられたものです。この他、淀の周辺には、東軍戦没者の埋骨地がいくつも点在しており、戦いの激しさと、個々の名前の残らない慰霊碑に、敗者となった東軍に対する扱いの厳しさを窺い知る事ができます。


鳥羽伏見之戦跡地の碑の位置
左:千両松附近の現状。
すっかり埋め立てられ、慰霊碑のあるあたりは、競馬場の駐車場になっています。

右:当時の面影をわずかに残す洛南九号水路。当時の地図には、沼と表記されており、千両松が植わっていた堤防以外は、一面の湿地帯でした。
淀城の堀は、蓮の名所でもあり、夏には見事な花が咲き誇ります。
淀城址
淀小橋旧趾
淀堤千両松跡
鳥羽伏見之戦跡地の碑
石清水八幡宮
石清水八幡宮行幸
石清水八幡宮と蛤御門の変
石清水八幡宮と鳥羽伏見の戦
橋本宿
橋本砲台跡
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