桝屋喜右衛門こと古高俊太郎が、薪炭商を営んでいた場所です。古高は梅田雲浜の弟子であり、早くから勤王活動を行っていました。特に、長州藩との繋がりが深く、八・一八の政変の後それを新選組に探知され、1864年(元治元年)6月4日捕縛されるに至ります。店からは、多数の武器と重要な書類が押収され、翌日の池田屋事変を引き起こすきっかけとなりました。
現在では、料亭志る幸となっています。
古高俊太郎邸跡
洛中の道 其四
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古高俊太郎邸跡の位置
坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地
1867年(慶応3年)11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋事件のあった場所です。土佐藩邸からごく近くにあり、龍馬は10日前に海援隊の屯所のある酢屋から移ってきたばかりでした。実行犯は、当時新選組が疑われていましたが、今では見廻組が手を下した事が明らかになっています。
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坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地の位置
長州藩京都藩邸跡・桂小五郎像
幾松(桂小五郎寓居跡)
佐久間象山先生遭難之碑
大村益次郎御遭難之碑
武市瑞山先生寓居跡(四国屋丹虎跡)
吉村寅太郎寓居跡
三条大橋
池田屋騒動之址
酢屋
土佐藩邸跡
土佐稲荷・岬神社
古高俊太郎邸跡
坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地
ホ ー ム
散 歩 道
壬生界隈
其の二
其の三
其の四
其の五
島原から七条
其の二
其の三
其の四
洛中の道
其の二
其の三
其の四


志る幸紹介ページ





創建は1348年(貞和4年)に遡り、もとは鴨川の中洲の岬にありました。江戸時代の初め頃に土佐藩邸内に遷座されたもので、坂本龍馬などの土佐藩士のほか地域の人々の信仰が深く、参拝のために特に藩邸内への通り抜け参拝を認めていたという事です。明治4年に土佐藩邸が売却され祠も別の地に遷されたのですが、近江屋の初代が旧土佐藩邸用人屋敷を買い取り、1887年(明治20年)にこの地に遷座させました。そして、1917年(大正2年)に先斗町や木屋町など近在の信徒が浄財を集めて祠を建立し、今日に至っています。現在、宮司は八坂神社の宮司が兼任しているとの事です。
土佐稲荷・岬神社
土佐稲荷の位置


土佐藩邸跡の位置
酢屋
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酢屋の位置
酢屋ホームページ
坂本龍馬が隠れ家としていた場所で、海援隊の京都屯所にもなっていました。この前の道は、三条大橋を傷めないように牛車が迂回するための道(牛車は鴨川の中を歩いて渡りました)で車道と言うのですが、今では龍馬通と呼ばれるようになっています。
本間精一郎遭難之地
本間精一郎は、越後寺泊出身の浪士で、清川八郎らと共に勤王の志士として活躍した人です。京都を中心に活動し、最も過激な志士の一人として知られる様になりますが、一面軽率な面があり、仲間から疎んじられる事もあったようです。京都挙兵計画などに関係しましたが、1862年(文久二年)勤王派の同士から幕府に通じたという誤解を受け、木屋町で岡田以蔵、田中新兵衛等に襲われ命を落としています。享年29歳。
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中岡慎太郎寓居跡
中岡慎太郎が坂本龍馬と共に暗殺された当時、ここに住んでいました。事件のあった近江屋とは、通りを挟んで目と鼻の先です。当時は、土佐藩出入りの書店商菊屋でした。ここの息子の峰吉は、中岡や龍馬に可愛がられており、暗殺のあった日も近江屋の龍馬の下を訪れていました。峰吉が、龍馬に鶏肉を買ってくるよう頼まれて近江屋を留守にした1時間足らずの間に凶行が行われました。峰吉は事件の直後の現場を訪れた第一発見者になっています。

現在は、「像」という名のあぶらとり紙専門店となっています。


中岡慎太郎寓居跡の位置


本間精一郎遭難之地の位置


本間精一郎遭難之地
中岡慎太郎寓居跡
東山界隈
其の二
京都御所周辺
其の二
其の三
其の四
其の三
伏見界隈
其の二
其の三
其の四
淀から橋本
其の二
其の三
大阪の道