京都御所周辺其三
建春門
京都御所の内講を固める6つの門の一つで、向唐破風の屋根を持つ四脚門。江戸期までは勅使の出入りに使われていましたが、明治以後は皇太子や皇后の出入りに使われるようになりました。また、外国の元首が出入りする際にも使われています。
建春門の位置
1863年(文久3年)7月30日に会津藩が建春門前で天覧馬揃を行っています。この日は雨で中止かと思われていたのですが、天皇の意向により急に催される事にります。松平容保は十分な準備は出来ていないまま命令を下し、午後17時頃操錬が始まります。この日は建春門の北に桟敷が設けられ、天皇・関白・公卿らが観覧しました。しかし、夜間の事でもあり、篝火の灯りだけでは操錬の様子ははっきりと見る事が出来ず、日を改めて馬揃えをするようにとの沙汰が下ります。そして「急な事であったにも係わらず、見事な馬揃えであり満足である。」との天皇の意向が伝えられました。
さらにその2日後、朝廷は会津藩の手際の良さと日頃の軍備熟練を称え、松平容保に対して錦陣羽織地二巻と白銀200枚を授けています。これにより、容保は大いに面目を施すことになりました。そして、8月8日に二度目の馬揃えが実施されています。
このあたりは、明治以前には公卿達の邸が建ち並ぶ界隈だったのですが、孝明天皇は、1847年(弘化4年)ここにあった空き地の一部に学問所を建て、40歳以下の公卿や、御所に勤めている役人及びその子弟を集めて学問を教える事にしました。ここは学習院と呼ばれるようになり、国学や歴史が教えられていました。幕末期には、若手公卿が情報収集のためと称して尊王攘夷派の志士と面会する場となり、尊王攘夷派が朝廷内に勢力を築くための足かがりとなっていきました。各藩から学習院に派遣される要員は学習院掛あるいは学習院出仕と呼ばれるようになり、主な志士だけでも、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、平野国臣などが居ます。彼等の入説によって、朝廷は尊王攘夷一色に染め上げられて行く事になりました。
学習院跡
学習院跡の位置
猿が辻の変(朔平門外の変)
姉小路公知は、三条実美と並んで尊攘過激派公卿の中心的な存在でした。しかし、1863年(文久3年)4月25日にあった摂海巡視の際に勝海舟の誘いにより幕府軍艦順動丸に乗艦し、蒸気船の威力を実体験したこと、勝海舟の国防論により感化されたことで、開国論に理解を示すようになったと言います。姉小路は5月2日に帰京し、周囲に洋式軍艦の威力について恐ろしげに語りました。そして、これが姉小路が開国論に走ったという噂を呼ぶ事になります。
5月20日午後10時頃、朝議を終えた姉小路の一行が公卿門を出て朔平門の北、猿が辻に至ったとき、物陰に隠れていた3人の賊が襲いかかってきました。一人は刀を抜いて提灯を切り、二人が姉小路に襲いかかります。姉小路の脇で太刀を持っていた従者の鉄輪勇は、戦わずして刀を持ったまま遁走してしまいます。もう一人、姉
小路を守っていた吉村右京は勇敢に賊と戦いますが、賊に邪魔されて姉小路の下へ行く事が出来ません。姉小路は持っていた笏で防ぎますが、ついに顔と左肩に傷を受け、それでも屈せずに賊の刀を奪い取ります。賊は姉小路に止めを刺すことなく遁走しますが、姉小路は邸の玄関にたどり着いたところで倒れ、手当の甲斐もなく亡くなってしまいました。姉小路が奪った刀を検分したところ薩州鍛冶であり、人斬りと謳われた田中新兵衛のものではないかと疑われました。しかし、京都町奉行所で取り調べを受けた田中は、刀を示されると何も言うことなく、その刀で自刃して果ててしまいます。結局犯人は不明のまま終わるのですが、この事件の嫌疑を受けて薩摩藩が九門の守備からはずされる事になり、朝廷から大きく後退する事となりました。この結果、朝廷内の勢力は長州藩一辺倒となります。そして、この事件により勢力を失った薩摩藩の巻き返しが、後の八・一八の政変へと繋がっていきます。
会津藩天覧馬揃
猿が辻の位置
猿が辻の名の元になった猿の木像。御所の鬼門にあたるため塀の一部が鍵型に欠けた形にされ、守り神として日吉大社の使いである猿の像が安置されています。
其の四