薩摩兵でした。西郷は、錦小路の藩邸から天竜寺に向かおうとしていたのですが、御所の方面で砲声が上がるのを聞き、急ぎ駆けつけたのです。西郷は、中立売御門の北の乾御門から御所の中に突入しるや、崩れ立つ一橋兵や会津兵を叱咤激励し、長州兵に立ち向かいます。長州兵は新たに出現した敵を迎え撃ちますが、次第に疲れが見え始めました。その中でも来島又兵衛は奮戦を続け、鉄砲隊を集めて西郷隆盛を狙撃し落馬させています。その西郷は、長州兵の先頭に立ち荒れ狂う来島又兵衛を認めると、小銃隊に狙撃を命じ、これを討ち取りました。来島を失ない、新手の薩摩兵の攻撃を受けた長州兵は総崩れとなり、敗走を開始します。
蛤御門の長州兵が敗走した直後に、山崎から出発した益田右衛門介の率いる部隊が堺町御門に到着します。幕府軍は既に御所への集結を終えて大軍となっており、益田は蜂の巣をつついた後に飛び込んだ様なものでした。やむなくこの部隊は、堺町御門の近くの鷹司邸
京都御所周辺其二
蛤御門
京都御所の周囲を固める九つの門の一つ。元は新在家御門という名で呼ばれる開かずの門だったのですが、1788年(天明8年)に京都を襲った天明の大火の時に初めて扉が開かれ、あたかも火に掛けられて口を開く蛤の様だという事から「蛤御門」と呼ばれるようになりました。1864年(元治元年)7月19日に起こった禁門の変では最大の激戦地となったことから、この事変を蛤御門の変と言う事もあります。この事変のあった当時の門は、現在の位置より東寄りにあって、鍵型になった塀に沿って南向きに建てられていました。
蛤御門の位置
禁門の変(蛤御門の変)
1864年(元治元年)6月15日、前年に会津藩と薩摩藩のために禁裏の守備を解かれ退京を命じられた(八・一八の政変)長州藩は、雪冤のため朝廷へ嘆願を行うべく2千の兵を伴って国元を出発します。6月末に京都近郊に達した長州勢は、伏見、山崎、天竜寺の3箇所に別れて布陣し、朝廷への陳情を開始しました。しかし、会津藩、薩摩藩に押さえられた朝廷はこれを拒否し、長州藩に対して退京を命じ、ついには追討令が出されかねない形勢に陥ります。
最大の激戦となった蛤御門の内部。
来島又兵衛が撃たれたあたり。御所の西南角に樹齢300年という「清水谷家の椋」が今も残ります。
を守っていたのは会津兵でした。国司の軍は日野邸を臨時の砦として会津兵と相対します。国司軍は巧みに戦い、会津兵は次第に押され始めました。一方、会津藩主である京都守護職松平容保は、御所の建礼門(南門)の前にあった御花畑(凝華洞)を仮本陣として御所の守備に着いていました。容保は、この頃寝返りも出来ない程の重病に陥っていたのですが、戦端が開かれた事を知ると病身を押して御所へ参内しようとします。彼は乗馬し、日野邸の近くにあった公卿門へ向かおうとしましたが、どうした訳か馬が動かなくなり、やむなく建礼門から参内します。長州兵が日野邸に押し入ったのは丁度この頃であり、容保は危ういところを助かった事になります。病身の容保に代わって会津兵を指揮したのは、禁裏御守衛総督の一橋慶喜でした。公家達の動揺を抑えるために容保を常御殿に詰めさせ、自らは葵の紋を付けた陣羽織を羽織り、金の采配を手に一橋兵を率いて打って出ます。慶喜は唐門の近くまで来ると会津兵に直接下知を下し、一橋兵と共に長州兵に当たらせます。このとき、蛤御門に来島又兵衛が率いる一隊が攻め掛かりました。この門を守っていたのは会津藩でしたが、来島軍の勢いは凄まじく、蛤御門に襲い掛かるや会津藩兵を蹴散らし、門を破って内部へ突入します。同じ頃、下立売御門でも突入に成功し、戦況は長州藩が大いに優勢となり、守備側は会津兵や一橋兵の間で同士討ちが行われる程混乱を極めました。来島又兵衛は悪鬼のごとく荒れ狂い、天皇の御座所を目指して更に兵を進めます。この戦況を変えたのが、西郷隆盛率いる
に潜り込み、幕府軍と対峙します。この部隊に居た久坂玄瑞は、前太政大臣鷹司政通に嘆願し御所へ参内する供に加えて貰えるよう訴えますが、政通はこれを拒否します。大軍に包囲された絶望的な戦況の中で、久坂は松下村塾の同窓である寺島忠三郎と差し違えて命を絶ちました。さらに、久坂と寺島に説得され、事の顛末を国へ報告すべく屋敷を脱出しようとした入江九一は、門を出たところで幕兵に刺し殺されてしまいました。幕府軍の総指揮官である一橋慶喜は、鷹司邸を焼き払うように命じます。この火と長州藩邸を焼き払った火が京都の町に燃え移り、三日間に渡って燃え続けた結果、京都市内の大半が焼け落ち、実に27,513軒もの家屋や数多くの社寺が失われました。これは天明の大火に次ぐ被害で、「どんどん焼け」「鉄砲焼け」と呼ばれ、長く語り継がれることになります。御所を脱出した長州兵は国元へ向けて落ち延びますが、真木和泉ら17名は天王山に立てこもり、追討を受け自害して果てました。
鷹司邸跡の位置
はこの伏見方面を長州軍の主力とみなし、守備力をこの方面に集中させていました。新選組も九条河原に布陣しています。ところが、この間隙を縫うように天竜寺に布陣していた国司信濃の一隊が、途中で妨害を受けることなく京都の街への侵入に成功し、御所へと迫ります。国司は軍勢を三手に分け、中立売御門、蛤御門、下立売御門へと攻め掛かりました。まず最初に戦端が開かれたのは、中立売御門でしす。ここを守っていたのは、黒田藩と一橋兵でした。彼等は、迫ってくる国司の軍を見て鉄砲を撃ちかけます。国司は、「確かに敵から発砲した。もはや御所の御門とて遠慮は要らぬ。」と攻撃開始を命じます。黒田藩は始めから戦意が無く、すぐに退却してしまいました。残った一橋兵は弱兵で知られており、国司の軍の攻勢を支えきれず、これも一条通の方へ退却してしまいます。国司は御門の扉を開き、門内へと突入します。彼等は当時中立売御門を入ってすぐのところにあった日野邸を通って唐門の前に出ます。ここ
中立売御門の内部。最初の戦端が開かれた場所です。
来島又兵衛狙撃地の位置
て決戦の方針を定め、19日未明行動を起こします。京都を取り巻く3箇所の陣から一斉に御所を目指して押し寄せ、会津、薩摩の兵を追い払い、天皇に長州へ御動座願うという計画でした。これに対して幕府軍は、会津、薩摩藩を中心に諸藩の兵力を合わせて5万を擁し、御所を中心に守りを固めていました。戦いは伏見方面で始まります。筋違橋で、長州藩の福原越後が率いる一隊と幕府方の大垣藩が激突し、長州勢はたちまちの内に壊滅してしまいます。幕府軍
を開い
追いつめられた長州藩は、
其の四
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凝華洞の位置