京都御所周辺
堺町御門
京都御所の固める九つの門の一つで、南に位置し堺町筋に面しています。幕末期には、八・一八の政変と禁門の変(蛤御門の変)の舞台になっています。当時は、この門を挟んで東側に鷹司邸、西側に九条邸が建っていました。
堺町御門の位置
八・一八の政変(禁門の政変)
阻止しました。長州藩と薩摩・会津藩は丸太町通を挟んで一触即発の睨み合いとなります。また、三条実美等の長州系公卿は、事情を質すために鷹司関白邸へ集まりますが、これは禁足を命じた勅定を無視したことを意味し、かえって相手に付け入る口実を与えた事となり、勅定違反として参事、国事、寄人罷免の上京都からの退去を命じられてしまいます。長州藩では、禁裏に対して発砲し朝敵となる最悪の事態を避け、尊攘急進派の公卿三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世道禧・壬生基修・錦小路頼徳・沢宣嘉の七卿を伴って東山妙法院へ退去し、やがて長州へと落ち延びて行きました。
この政変の時、新選組の前身である壬生浪士組にも出動が命じられ、建礼門(南門)と仙洞御所の守備に就いています。彼等が参内してきた時に蛤御門で守備に就いていた会津藩兵との間で通せ通さぬのいざこざがあり、芹沢鴨が槍ぶすまの前に立ちはだかって「公用方よりの急達により、御花畑迄まかり通る!」と言い放ち、扇で槍の穂先を扇いだというエピソードが残っています。
堺町御門の内部。
建礼門の位置
九条邸跡
九条家は摂政・関白となりうる五摂家の一つでした。幕末期の当主九条尚忠は、1856年(安政3年)に関白となり、日米通商条約勅許問題で最初は攘夷派として反対の立場を取っていましたが、幕府の首席老中堀田正睦の説く開国論に理解を示す様になり勅許降下に向けて尽力しています。しかし、その努力にも係わらず勅許を得る事は出来ず、返って尊攘派の工作により一時関白の地位を追われる事になってしまいます。この事が安政の大獄を引き起こす一因となり、尊攘派を駆逐した幕府の援助を受けた尚忠は間もなく復職を果たしています。その後は親幕府的立場を取り続け1861年(文久元年)の和宮降嫁では、幕府と折衝し実現させることに大きな力を発揮しました。こうした尚忠の行動は尊王攘夷派の怨嗟するところとなり、1862年(文久2年)に起きた寺田屋事件では襲撃の
標的とさえされています。さらに尊王攘夷派の勢力が頂点に達した朝廷においては身の置き所がなくなり、同年6月に関白の辞職を余儀なくされ、8月には出家、謹慎の身となっています。
1864年(元治元年)に起きた禁門の変では、向かいの鷹司邸に立てこもる長州兵を攻撃するために九条邸に会津兵が陣取り、鷹司邸に向けて砲撃を行っています。
九条家は、1869年(明治2年)に天皇と共に東京へ移り、その邸も取り壊されてしまいました。現在は庭園の池と茶室であった拾翠亭が残り、わずかに当時を偲ばせてくれます。
九条邸跡の位置
其の四