島原から七条 其四
天満屋事件跡
1867年(慶応3年)11月15日、土佐の志士坂本龍馬が暗殺されました。この事件の実行犯は見廻組だったのですが、当時は新選組が疑われていました。そして、龍馬が率いていた海援隊では、いろは丸事件を恨みに思った紀州藩が、新選組を使って暗殺したものと断定します。海援隊は、復讐の的を紀州藩公用人の三浦久太郎に定め、命をつけ狙う様になります。危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦の警護を依頼し、新選組は斉藤一を筆頭とする隊士を三浦の護衛に付け、三浦の旅宿である天満屋に張り込ませます。そして、12月7日夜、三浦の居所を突き止めた海援隊は陸奥陽之助ほか15名で天満屋に襲撃を掛けました。三浦を警護していたのは斉藤ほか9名の新選組隊士で、このとき酒宴を張っていた事もあり、不意を突かれて不利な形勢に陥いります。しかし、新選組隊士がとっさの機転を利かして「三浦討ち取ったり!」と偽りの声を上げ、虎口を脱しています。この事件で、三浦は軽傷を負っただけでしたが、襲撃側の中井庄五郎(十津川郷士)、新選組の宮川信吉が命を落としました。
天満屋事件跡の位置
西本願寺
西本願寺は、親鸞聖人が開かれた浄土真宗本願寺派の本山で、聖人の弟子達によって開かれた大谷廟堂に始まります。その後、各地に寺基を移しましたが、1591年(天正19年)豊臣秀吉により寺地寄進を受けて現在地へ移ってきました。伽藍は移転後直ちに整備され、1633年(寛永10年)頃にはほぼ今日に近い姿となっています。
国宝の飛雲閣や唐門、重要文化財の阿弥陀堂、御影堂などの建造物や、国宝の鏡御影などの数多くの美術品を所有し、1994年(平成6年)12月に、世界文化遺産に登録されています。


西本願寺の位置
1865年(元治2年)3月10日、新選組は壬生から西本願寺へ屯所を移します。理由は、隊士の増加に伴い壬生の屯所が手狭になったためですが、特に西本願寺を選んだのは、当時この寺が勤王派に同情的であったため、これを牽制する意味があったと言われています。屯所の場所は、左の写真の太鼓楼の西にあった北集会所で、この太鼓楼も隊士の寝泊まりに使われました。
新選組は、境内で大砲を使った調練を行い、また門に本陣と書いた看板を掲げ参拝者を威嚇するなどしたため、西本願寺は大変な迷惑を被ります。また、何より隊士が境内で豚を煮る事に耐えきれず、寺側で全費用を持ち新しい屯所を建設することで、新選組の移転に漕ぎ着けます。こうして、1867年(慶応3年)6月に不動堂村に新しい屯所が完成し、新選組が移転して行きました。
なお、当時屯所として使われた北集会所は、現在、姫路市にある本徳寺の本堂になっています。
西本願寺ホームページ
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不動堂村屯所跡
油小路の決闘跡
天満屋事件跡
西本願寺



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