坂本龍馬襲撃事件
1866年(慶応2年)薩長同盟を成し遂げた龍馬は、その二日後の1月23日、伏見寺田屋に居たところを幕吏に襲われます。このとき龍馬は、長州藩の三吉慎蔵と一緒に寺田屋の二階の一室に居ました。龍馬の所在を探知した伏見奉行所では、見廻組にも応援を頼むと同時に配下の捕り方を動員し、午前二時頃寺田屋を囲みます。その数、ざっと100名程だったと言います。包囲を完了すると捕り方は、まず玄関の戸を叩き、女将のお登勢を呼び出します。そして、お登勢に、「2階に侍が居るか、居るなら寝ているか。」と問い質します。お登勢が2人とも起きている旨を答えると、捕り方達は非常に狼狽し、「おまえが行け、彼が行け。」と大変な混乱に陥ったと言います。当時の捕り方は臆病で通っており、ことに相手が北辰一刀流の達人という事もあって怖じ気づいたのでした。お登勢は、こんな捕り方が何人掛かろうとも、龍馬の敵ではないと安心したと手記に書いています。
屋内にあって、この異変に最初に気づいたのは、後に龍馬の妻になったおりょうでした。おりょうは、お登勢が捕り方に呼び出された頃、仕事を終えて奥に居ました。このため、表の異変には気づいていません。仕事の後の遅い風呂に入ったおりょうは、風呂の窓が開いていることに気づき、締めようとします。このとき何気なく外を見たおりょうは、寺田屋をびっしりと囲む捕り方の姿に気が付きました。驚いたおりょうは、風呂から飛び出し、そのまま着物も付けずに裏の階段から2階に駆け上がり、部屋にいた龍馬に危機を知らせます。裸のおりょうに飛び込まれた龍馬達は驚きますが、その直後捕り方が2階へと上がってきました。
上がってきた捕り方は10人程で、抜き身の槍を構えていました。龍馬は、まずおりょうを階下に逃がします。そして、自分たちは薩摩藩士である、不審があるなら薩摩藩邸に問い合わせよ、と言い放ちます。
龍馬は座敷の中央に座ったまま、所持していた6連発のピストルで応戦し、捕り方の何人かを倒します。また、三吉慎蔵は、得意の槍を振るって奮戦しました。このとき龍馬は、なぜか刀を抜いておらず、捕り方が切り込んで来た刀をピストルで受け止めたのですが、誤って左手の親指を切られてしまいます。
捕り方は、なぜか一旦階下に降ります。この隙に龍馬は、戦い易い様に部屋を片づけてしまいます。暫くすると、今度は30人程の捕り方が上がってきました。そして、槍ぶすまを作って、「神妙にしろ。」と龍馬達に迫ります。龍馬は、再度薩摩藩士であると主張しますが、捕り方には通じず、遂に乱闘が始まってしまいます。
この左手の傷は思いのほか重傷で、多量の出血を伴い、龍馬はピストルの弾を込めようとしたときに、血で手が滑って弾倉をとり落としてしまいます。龍馬は、暗闇の中で四つばいになって弾倉を探しますが見つからず、遂にはピストルを捨ててしまいます。これを見た三吉は、「それならば敵中につき入り戦うべし。」と斬り死にを覚悟しますが、龍馬はこれを止めて脱出を試みます。幸いな事に、捕り方は二人を恐れて、唐紙を破るなどどんどんと大きな音をさせるだけで、手元に飛び込んで来るようなことはありませんでした。龍馬達は、暗闇を利用してじりじりと部屋の出口に近づき、裏階段を降りて裏庭に至り、さらに隣家を通り抜け寺田屋からの脱出に成功します。
一説には、裏庭からではなく、2階の窓から脱出し、屋根伝いに逃げたとのだ、とも言います。
屋外に逃れた二人は、捕り方が手薄だった通りを駆け抜け、濠川へ至ります。追手をまくために、濠川の水門をくぐり抜け、濠川を渡り、対岸の貯木場まで至ります。この貯木場の材木を積み重ねた高棚に上がった後、龍馬は出血多量のために体力が尽き、動けなくなってしまいます。まだ暗くもあり、すぐに見つかる恐れはありませんでしたが、周囲は捕り方の提灯で満ちています。三吉は、もはやこれまでと、切腹しようとしますが、龍馬はこれを止め、薩摩藩の伏見藩邸まで駆け込み、救いを求めるよう諭します。龍馬が隠れていた貯木場から薩摩藩邸までは意外に近く、300m程の距離でした。三吉は、幸いなことに捕り方に見つかる事なく、夜の明けかかった町を駆け抜け、薩摩藩邸に駆け込むことに成功します。
一方、おりょうは、龍馬の部屋を出ると急いで着物をまとい、寺田屋を飛び出して薩摩藩邸に駆け込んでいました。このとき、薩摩藩邸に居たのは、留守居役大山彦八ほか10名ほどでした。大山は、おりょうの注進を受けると京都藩邸へ知らせを出す一方、人を出して伏見市中の様子を探ります。
大山は、三吉が駆け込んでくるとすぐに船を出し、龍馬の救出に向かいます。薩摩藩邸の前は濠川になっており、そのまま龍馬が潜伏している貯木場へ行く事ができました。龍馬を無事に保護した大山は、龍馬を伏見藩邸に匿います。そして、幕府からの問い合わせに対しては、知らぬとはねつけます。さらに薩摩藩は、西郷の指示により、部隊を派遣して龍馬を京都藩邸へ護送し、これを匿い、傷の養生をさせました。こうして虎口を脱した龍馬でしたが、この事件で幕府の捕り方を殺めた事が龍馬を犯罪者たらしめ、後の災いを呼ぶ事となります。
(この項は、司馬遼太郎「龍馬がゆく」を参照しています。)
寺田屋の2階にある「龍馬の間」。龍馬はこの部屋を愛用してたと言います。
寺田屋に残る風呂。おりょうは、
右の窓から外を見たのでしょうか。
寺田屋の裏階段。龍馬の間は、この階段のすぐ上、風呂は、降りてすぐの所にあります。
龍馬の間の廊下側の出入口。当時の間取りとは異なりますが、今にも捕り方が入ってきそうな雰囲気があります。
龍馬の間の東側。障子の外に、やっと人一人が通れる程の細い廊下が隣の部屋から続いています。ここは、当時も似た形だった模様。
龍馬の間に飾ってあるピストルの模型。
龍馬の間の柱にある弾痕。当日の夜を彷彿とさせますが、当時のものではない様です。
寺田屋の裏庭。龍馬達はここから隣家へと脱出したと言います。
濠川の様子。この附近にあった貯木場に龍馬は潜んでいました。
薩摩藩伏見藩邸の跡。現在は、松山酒造株式会社の工場になっています。


薩摩藩伏見藩邸跡の位置
寺田屋の2階に残る刀傷の跡。正直なところどれが刀傷なのかよく判りませんが、「刀痕」と書いた紙の左下にある、四角いほぞ穴を埋めた様な箇所がそうなのでしょうか。この刀傷をいつ誰がつけたものかは、判りません。
寺田屋二階の刀痕
坂本龍馬とおりょう
伏見の土産物店で買った坂本龍馬とおりょうの絵はがき。
右のおりょうの写真は、龍馬が暗殺された近江屋(井口家)に伝わるものです。これと同じ時に撮ったと思われる別バーションの写真が2001年に京都国立博物館で展示され、話題になった事もあります。
左の龍馬の写真は、上野彦馬が1866年(慶応2年)に長崎で撮ったとされるものです。この写真では判りにくいですが、有名な革靴やぼさぼさにしたいわゆる龍馬まげの様子、無愛想な表情などが伺えて、興味深い一枚です。
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