伏見界隈 
墨染〜近藤勇狙撃地〜
1867年(慶応3年)12月18日、伏見奉行所にあった近藤勇は、永井玄蕃頭との軍議のために二条城へ赴きます。すでに幕府軍と薩長軍との間には一触即発の緊張感が漲っており、近藤も島田魁など護衛20名を伴っての登城でした。一方、寺町でこの登城の姿を見ていた者が居ました。近藤に伊東甲子太郎等の仲間を殺された御陵衛士の生き残り、阿部十郎です。阿部は、仲間のかたきを取るために、かねてから近藤を付け狙っていました。阿部は、近藤が城からの帰りに七条醒ヶ井の妾宅に寄るものと見込みを付け、佐原太郎と内海二郎の二人を伴って踏み込みます。しかし、近藤は既に出立した後でした。阿部は、妾宅の下僕から近藤が伏見街道を通って帰ると聞き出します。そこで、先回りをして待ち伏せを仕掛けるために、間道を通って伏見へ急ぎます。阿部は伏見の薩摩藩邸に居た篠原泰之進、加納道之助、富山弥兵衛等と伴に、伏見街道脇に潜みます。場所は、街道が屈曲している墨染附近だったと言います。


近藤勇襲撃地の位置(推定地)
御香宮ホームページ
墨染〜近藤勇狙撃地〜
阿部達は二手に分かれ、阿部と富山の二人は鉄砲を持って街道脇の空家に入り、篠原、加納等は槍を持って別に伏せていました。午後4時頃、近藤の一行が現場に差し掛かります。これを見た富山が、「来た、来た。」と言うなり撃ちかけてしまいます。これが近藤の左肩に命中しますが、急所は外れており、致命傷には至りませんでした。近藤は、多量に血を流しながら、気丈にも落馬する事なく鞍上に止まります。このとき、近藤の側にいた島田が近藤の乗馬の尻を刀で叩き付け、馬を走らせます。近藤は鞍に伏せるようにして走り続け、伏見奉行所にたどり着き、危うく難を逃れました。襲撃現場では、伏せていた篠原らが島田達に切り込みます。そして、乱闘の結果、新選組の石井清之進と下僕の久吉の二人が斬殺されてしまいました。近藤は、一命は取り止めたものの、治療のために大阪へ退かざるを得なくなり、以後新選組の指揮は副長の土方歳三が執る事になります。
伏見街道墨染附近から南を望む
伏見街道墨染附近から北を望む
伏見奉行所跡
1867年(慶応3年)12月9日、王政復古の大号令が発せられて、旧幕府は統治権を失います。これにより、新選組も市中取り締まりの任務を解かれ、一時的に新遊撃隊に編入されます。しかし、同13日には新遊撃隊の名を返上して再び新選組を名乗りました。16日、新選組は伏見鎮撫を命じられ、不動堂村の屯所を後にして伏見奉行所へ移ります。その2日後近藤が墨染で狙撃され、20日に治療のために沖田総司と共に大阪奉行屋敷へ下がります。
1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽街道小枝橋で、朝廷への陳情のために北上する幕府軍と、これを阻止しようとする薩摩軍が衝突し、午後4時頃ついに戦闘の火ぶたが切られます。伏見にもこの砲声は届き、伏見奉行所に陣取る会津藩や新選組を中心とする幕府軍1500人と、奉行所の北隣の御香宮に陣取る薩摩軍500人との間で戦闘が開始されました。戦況は、人数では劣る薩摩藩が圧倒的に有利でした。伏見奉行所を俯瞰して布陣する薩摩藩が伏見奉行
所へ向けて撃ち下ろす大砲の弾は、百発百中で命中します。これに対して、新選組では一門だけの大砲を使って反撃を試みますが、旧式砲でもあり、とても敵するものではありませんでした。また、刀槍を中心とした幕府軍の装備では、銃火器を中心とした薩摩軍相手にまともな戦いにはなりません。このため、土方歳三は、永倉新八の二番隊を決死隊として、夜陰に乗じての斬込みを敢行させます。しかし、このとき折悪しく奉行所の建物が炎上を始め、その明かりで、斬込隊の姿が、敵側から影絵のように浮かび上がってしまう事になります。斬込隊は薩摩軍から狙い撃ちされるはめになり、さんざんに射すくめられ、夜襲は失敗に終わってしまいます。この斬込隊が引き上げある時、着ていた甲冑が重すぎて奉行所の土塀を乗り越える事が出来なかった永倉を、島田魁が塀の上から鉄砲を差し伸べて軽々と引き上げ、その怪力が評判になったというエピソードが残っています。翌4日早暁、幕府軍は総崩れとなり、大阪方面へと退却し、新選組も伏見奉行所を放棄せざるを得ませんでした。


伏見奉行所の位置
伏見奉行所跡附近の様子
伏見奉行所跡の石碑(現桃陵団地入り口)
御香宮
日本第一安産守護之大神として広く知られている神社です。神功皇后を主祭神として仲哀天皇応神天皇他六柱の神を祭ります。初めは「御諸神社」と称していましたが、862年(貞観4年)9月9日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇よりその奇端によって、{御香宮}の名を賜っています。写真の表門は、伏見城の大手門を移したもので、本殿とともに重要文化財に指定されています。
御香宮の位置
御香宮の境内にある鳥羽伏見の戦の戦跡を表す石碑です。これは、1968年(昭和43年)に明治100年を記念して建てられたもので、碑文は当時の内閣総理大臣佐藤栄作の書です。
1868年(慶応4年)1月3日の鳥羽伏見の戦の開戦時には、この御香宮に薩摩藩500人が布陣しており、ここから道路一本隔てた南側にある伏見奉行所を俯瞰する事が出来ました。なぜ圧倒的に有利なこの地を薩摩藩が押さえ得たかには、一つのエピソードがあります。当初、幕府側がここに本営を置く予定で、徳川氏陣営と書いた木札を門に掲げておきました。ところが、これを見た御香宮の宮司は尊王贔屓だったので、直ちにこれを御所に知らせました。薩摩藩では事の重要性に気づき、急ぎ吉井孝助を派遣して御香宮に陣を構えさせ、幕府軍の布陣を防ぎました。これにより、後の戦いを有利に導く基礎を築く事が出来たのです。
明治維新 伏見の戦跡石碑
伏見奉行所跡
御香宮
明治維新 伏見の戦跡石碑
寺田屋浜
寺田屋
寺田屋事件
魚三楼に残る弾痕
魚三楼は、1764年(明和元年)に創業した老舗の料亭です。鳥羽伏見の戦いでは、この店の前の京町通りも戦場になりました。幸いな事に、この店は大きな被害は免れましたが、表格子にはその時の弾痕が今でも保存されています。


魚三楼の位置
魚三楼に残る弾痕
三十石船
寺田屋関連グッズ
大黒寺
伏見寺田屋殉難九烈士の墓
坂本龍馬襲撃事件
薩摩藩伏見藩邸
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