六阿弥を偲んだ後は、一旦円山公園を後にして、長楽寺へ向かう。なお、左阿弥を少し上がったところにある半地下式の公衆トイレは心霊スポットとして有名な所で、興味のある人は立寄って見るのも良い。
・長楽寺
長楽寺
805年に創建された寺で、当初は天台宗、その後浄土宗を経て時宗に改宗されるという変わった経歴を持つ。本尊は伝教大師が自ら彫ったという准胝観音。古くから紅葉の名所とされており、平家滅亡後、建礼門院徳子が落飾した事でも知られる。また、境内には頼山陽の墓がある。
拝観料
大人 500円
小・中学生 250円


長楽寺ホームページ
長楽寺の位置
・円山公園、弥阿弥ホテルと安養寺六阿弥
知恩院大鐘楼から南にある柵を抜けると円山公園に出る。このあたりは、広い平場になっていて変化に乏しく、何となくがらんとした印象のする場所である。ここは、かつて六阿弥と呼ばれた安養寺の塔頭があり、また、京都で最初に出来たホテルがあった場所で、平らに整地された敷地だけが残っているのである。
明治14年、長崎県の井上万吉が安養寺の塔頭のひとつ也阿弥を買い取り、西洋式ホテルを開業した。これが京都で最初に出来た本格的なホテルで、その後附近の塔頭の買収を繰り返し、明治27年頃には東山中腹にそびえ立つ、巨大なホテルに成長した。また、同時期に、也阿弥の南隣に金閣を模した塔を備えた吉水温泉(人工の鉱泉風呂)も開業しており、当時このあたりは一大観光地であった。その後、明治32年に、也阿弥は火災に見舞われ一棟を残して全焼しまう。也阿弥は曲折を経て一度は再建されるが、明治39年に再び火災を起こし、廃業へと追い込まれた。このときの火災で南隣の吉水温泉も同時に全焼し、歓楽街としての歴史は終わりを告げる。翌年、京都を訪れた夏目漱石は、「弥阿弥ホテルの焼残り頗る見苦し。」とその日記に記している。このあと、弥阿弥ホテルと吉水温泉の跡は、円山公園として整備されることになる。


弥阿弥ホテル跡の位置
弥阿弥ホテル跡
左阿弥
江戸時代初期、安養寺では六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭が出現し、お互いに贅を尽くした庭園美を競った。六阿弥はそれぞれが貸座敷を営んで大変な賑わいを示し、元禄期には最盛期を迎えた。明治になると、まず弥阿弥が買収されてホテルとなり、他の塔頭も左阿弥を残して次々に弥阿弥に買収されて姿を消していった。左阿弥は、1849年(嘉永2年)に料亭となった後、そのまま現在に至っており、かつての六阿弥の面影を伝える唯一の存在である。それでも、左阿弥の附近の円山公園内を散策すると、かつての庭園の跡や、塔頭の敷地の跡である平場が残り、六阿弥の跡を偲ぶ事が出来る。


左阿弥の位置
寺井玄渓は、赤穂の人で御殿医を勤めていた。元禄14年に赤穂事件が起こると大石内蔵助と行動を共にし、大石が京都に住まいを移すと自らも長楽寺の麓に住んだ。大石が吉良邸討ち入りの決意を表明すると、玄渓もこれに参加しようとするが、高齢である事と人を救うべき医者である事を理由に認められず、京都に残った。のち、大石達同士の切腹を聞き、人生の無常を感じた玄渓は、家の近くにあったこの石に「夢」という字を刻んだという。今は、円山公園の中にあって、庭石の様に溶け込んでいる。玄渓の墓は、長楽寺にある。


夢の位置
大谷祖廟(東大谷)参道
大谷祖廟は、親鸞上人の御遺骨をまつる東本願寺の飛地境内。背後に広大な墓地があり、毎年お盆の時期は万灯会が行われ、一万個の提灯が灯される。
ほとんど知られていないが、この参道にはムササビが棲息している。夜、じっと耳を澄ませていれば頭上を飛翔するムササビに出会えるかも知れない。
大谷祖廟ホームページ

大谷祖廟の位置
長楽寺の隣に大谷祖廟がある。大谷祖廟は信仰のための場所であり観光地ではないが、ここの参道は広くてかつ静かであり、なかなか赴きのある空間である。
・大谷祖廟
・ホーム
・平安神宮
  青蓮院
・白川へ
・知恩院
・御影堂
 濡神明神
・六阿弥
 長楽寺
 円山公園
・八坂神社
・高台寺道
・高台寺
・石塀小路
・一念坂か
 ら二年坂
・二年坂
  三年坂
・清水寺
・法観寺
  庚申堂
・番外編
大谷祖廟から、円山公園にある坂本龍馬の銅像を目指す。アスファルトの道のすぐ向こう側が円山公園であり、小さな坂道を降りると龍馬の銅像が立っている。
・円山公園、坂本龍馬像
坂本龍馬、中岡慎太郎銅像
初代の銅像は昭和9年に建てられたが、戦争中供出により失われた。その後、昭和37年に高地県人会により再建され現在に至る。円山公園のランドマークでもあり、待ち合わせ場所に使われる事も多い。
この像で、坂本龍馬が立って中岡慎太郎が座っているのには、ちゃんと理由がある。坂本龍馬は身長が174cm前後あり、当時の人としては図抜けて背が高かった。対して中岡慎太郎の身長は、当時の平均的な150cm台でしかなく、立って並ぶと差がありすぎて絵にならない。このため、中岡を座らせてバランスを取っているのである。ただ、この像を見ていると、中岡慎太郎が坂本龍馬の従者のように見えなくもない事から、異論もあるようだ。
龍馬銅像の位置
高知県立坂本龍馬記念館ホームページ
龍馬の銅像から園内を西に向かい、八坂神社を目指す。円山公園にはお食事処も多い。中でも、有名なのが「平野家」だろう。海老芋と棒鱈を炊き合わせた「いもぼう」で知られる。いもぼう御膳は2400円。少し四条よりに下った所にある利久庵の湯豆腐も美味しい。
・円山公園、枝垂桜
円山公園
円山公園は、1886年(明治19年)に開設された京都市内最古の公園。小川治兵衛作の回遊式庭園で86,600uの広さを持つ。円山公園は、元は八坂神社の境内で、江戸期には安養寺六阿弥への参道として、茶店の建ち並ぶ界隈だった。明治以後は、弥阿弥ホテルや吉水温泉と共に一大歓楽地として栄えたが、ホテルと温泉の廃業により、次第に今のような静かな公園となっていった。
円山公園は桜の名所として知られ、特に池の西にある枝垂桜は有名。かがり火に映える姿は、美しいの一言。観光名所であるとともに京都市民の憩いの場でもあり、昔からデートスポットともなっている。
円山公園の位置
小川治兵衛紹介ページ
円山公園 枝垂桜
名木として知られるこの枝垂桜は、元は祇園感神院(八坂神社)の坊の一つ宝寿院の庭にあった。明治初年、感神院の境内が官有地に編入された際に伐採されかけたのだが、明石博高氏が銘木を惜しんでこれを譲り受け、京都府に寄贈し、円山公園が整備されたのに伴い京都市の管理となった。この初代の木は、幹回り4m、樹高12m、推定樹齢200年という古樹で、明治の中頃には最盛期を迎えていたという。大正に入ると衰えが目立ち始め、谷崎潤一郎の「細雪」においても、「年々色あせていく」と嘆く様に描かれている。初代の木は、昭和22年に枯死したが、現在の木は、昭和24年に、15代佐野藤右衛門氏が初代の実を採って育てていた苗を京都市に寄贈し、2代目として植えたものである。正式な名称を「一重白彼岸枝垂桜」と言い、京都を代表する桜である。
円山公園枝垂桜の位置
円山公園 桜
円山公園には、上記の枝垂桜の他にも数多くの桜があり、全部で800本以上あると言われる。右の写真は、八坂神社の北東の鳥居の前にある枝垂桜で、円山公園の中でも最も早く咲く木のひとつである。まだ若いが、花の色が鮮やかで、これからが楽しみな一本である。


円山公園桜の位置
円山公園ラジオ塔
枝垂桜の前にあるこの施設はラジオ塔という。1932年(昭和7年)NHKにより設置された。当時はこの前でラジオ体操が行われたという。1982年(昭和57年)に復元され、現在に至る。また知る人は少ないが、道路を挟んだ向かいの広場には昭和30年代に街頭テレビが設置されており、テレビ塔と呼ばれていた。プロレス中継で盛り上がったのは、他の街頭テレビと同様だったらしい。今は基礎の残骸だけが残る。
円山公園話題のページ(ねこづらどき)


円山公園ラジオ塔の位置





・京都の散
 歩道
平野家ホームページ
左阿弥ホームページ