壬生界隈 其四
光縁寺
光縁寺は、1613年(慶長18年)頃に創建された浄土宗の寺で、
知恩院の末寺にあたります。新選組との関係は、前川邸から歩いて5分とごく近い場所にあること、また、この寺と山南啓介の紋所が同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」であったことから山南と当時の住職良誉上人との交際が始まり、亡くなった隊士の埋葬を依頼したのではないかと言われています。
この寺の過去帳には、隊士のほか新選組に縁のある人を含めて28人の記載があり、墓地には四基の墓が現存しています。ただし、ここは史跡であると同時に現役の墓地でもあるため、静かに参拝しなければなりません。
このため、拝観料は要りませんが、墓地清掃に協力するために寸志として100円納めて下さい。
光縁寺墓地に現存する墓。
写真左:合同墓で、正面に松原忠司、桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知、右側面に田中寅三、加藤羆、左側面に矢口健一郎、佐野七五三之助、中村五郎、茨木司、富川十郎の名が刻まれています。
写真中央:大石造酒蔵(一橋家附臣、新選組観察大石鍬次郎の弟)の墓。新選組隊士の今井裕次郎に斬られたとも、病死だったとも言われています。
写真右:山南敬助の墓。右側面に河合耆三郎、柴田彦三郎、左側面 に施山多喜人、石川三郎の名が刻まれています。
沖田氏縁者の墓。正面に真明院照誉貞相大姉、側面に沖田氏縁者と刻まれています。この墓は、昭和51年に当時の住職によって建てられたもので、沖田氏縁者は過去帳に記載はあるものの墓は存在せず、寺に対する問い合わせが数多く寄せられたため、参拝者に明示するための措置だったそうです。
沖田氏縁者については、沖田総司の看護にあたっていた「秩」という女性で「キョウ」という娘を産んだという説、新選組にもう一人いた沖田姓の隊士「沖田承之進」の縁者ではないかとする説など諸説がありますが、どれが正しいかは決め手がないようです。
光縁寺の新選組関係埋葬者一覧表。光縁寺案内書より転載。当寺の過去帳、墓碑に記載のあるもので、伊東甲子太郎など改葬されたものも含まれています。
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光縁寺の位置



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