本間精一郎
(1834年(天保5年)〜1862年(文久2年))
本間精一郎は、1833年(天保4年)に、越後国三島郡寺泊にあった酢、醤油の醸造業を営む豪商「かくほん」の五代目辻右衛門の長男として産まれました。与板町の斎藤赤城の塾で学び、1853年(嘉永6年)20歳のとき、「此行必ず自ら欺かざるなり」と「不自欺斎」と号し、和歌一首を残し、江戸へ旅立ちます。
雲なき真澄の月のこころもて あはれ雲井に名を照さばや
江戸では、時の勘定奉行川路聖謨に中小姓として仕えます。これは、川路が佐渡奉行として越後に居たことがあり、精一郎と面識があったためと言われています。精一郎は、江戸滞在中に清河八郎と交流するうち、その感化を受けて勤王の志士へと変貌を遂げます。1858年(安政5年)川路に従って京へ出て来ますが、そこで長州の久坂玄瑞らと交際し、さらに勤王色を強めます。安政の大獄の時に幕府を批判したとして一時獄に繋がれますが、その後許されると京都で勤王活動を再開、いつしか尊攘派浪士の中心的存在となっていきました。
1862年(文久2年)、薩摩藩の島津久光の上洛の際には、清河と共に京都挙兵計画を企画し各地を遊説して回ります。その途中長州で吉村寅太郎と知り合い、その紹介で武市半平太と会うべく土佐へ出かけています。しかし、この計画の遂行途中、志士が集結していた大阪で、清河、吉村等と親睦の船遊びをしている際に幕吏と要らざるもめ事を起こし、それが元で同士の信頼を失い、清河と共にこの挙から外される事になります。結果としてこの計画は、精一郎達が倒幕の実行者として期待を掛けていた島津久光により否定され、失敗に終わっています。(寺田屋事件)
精一郎は、この後も勤王活動を続け、7月18日、議奏正親町三条実愛に、公武合体派公卿であり、和宮降嫁に尽力した岩倉具視らいわゆる「四奸ニ嬪」の排斥を訴えています。しかし、その活動も終わる時を迎えます。彼の行動が同志達の誤解を招き、幕府方に内通したとされ、木屋町で岡田以蔵、田中新兵衛等の兇刃に斃れたました。享年29歳。その斬奸状に曰く、
「この者の罪状、今更申すまでもなく、第一虚喝をもって衆人を惑わし、その上高貴の御殿方へ出入り致し、詭弁をもって薩長土の三藩を種々讒訴致し、有志の間を離し、姦謀相巧み、あるいは非理の財富を貪り、そのほか筆舌に尽し難し。このまま差し置いては無限の過害を生ずべきにつき、かくのごとく梟首せしむるものなり。閏八月二十一日」
精一郎の暗殺は、武市半平太が指示したとも言われています。斬奸状にある様に、会議の席上薩摩藩や公家衆の弱腰を公然と非難した事もあったようですが、幕府に内通したというのは誤解だったようです。
本間精一郎は、大変な才人であり、その弁舌は卓越したものがあったと言います。
しかし、その反面、他人を軽んずるところがあり、また大阪での船遊びの時に事件を起こした様に、軽躁な側面もあった様です。司馬遼太郎は本間精一郎について、「胆力を無くした清河八郎」と評しています。同士から暗殺されるに至ったのは、そうした性格により同士から要らざる誤解を招いた事にあった様です。また、清河と同じく、藩という背景を持たず、その才覚だけで変革をもたらそうとした所に、そもそもの原因があったのかも知れません。