幕末に活躍した志士。土佐四天王の一人に数えられます。

1.北川郷大庄屋見習時代
安芸郡北川郷大庄屋中岡小伝次の長男として産まれ、7歳のときに漢方医島村岱作の塾に学び、14歳にして代講を勤めています。1854年(安政元年)、間崎哲馬(滄浪)の下に入って経史を学び、さらに翌1855年(安政2年)、武市半平太の道場に入門します。武市からは、剣を学ぶと同時に勤王思想についても感化を受け、武市を崇拝するようになります。1857年(安政4年)、父を輔けて北川郷大庄屋見習となり、野友村の庄屋利岡彦次郎の娘かねと結婚します。この庄屋見習い時代の慎太郎にはいくつかのエピソードがあります。1858年(安政5年)に土佐を襲った地震、暴風雨により、北川郷は大凶作に見舞われます。慎太郎は、自らの田や畑を抵当に入れ、藩から800両を借り受け、この金で米、麦を買い付け村人に施しました。また、1860年(万延元年)に再び凶作が訪れた時には、慎太郎は近在からかき集めた薩摩芋五百貫を村人に提供しますが、それだけでは足らず、郡奉行所の貯蔵米の解放を求めて、総巡検使の家老桐間蔵人の屋敷の門前で一夜座り込んで説得に成功し、村人を救っています。

2.土佐勤王党
1861年(文久元年)9月、武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟し、ここから勤王の志士としての活動が始まります。その翌年、1862年(文久2年)10月には、老公山内容堂の警護を名目に、宮川助五郎を総頭として結成された五十人組に参加、慎太郎は伍長として江戸に赴きます。12月、容堂の使いとして信州松代に佐久間象山を訪問して時勢論を聞き感化を受け、その後京都に至ります。1863年(文久3年)2月、慎太郎は容堂から抜擢を受け、徒目付兼他藩応接密事係を拝命します。しかし、すぐに病気を理由にこれを辞職し、4月土佐に帰ります。8月、京都で公武合体派によるクーデターである8月18日の政変が起こり、朝廷から勤王派が一掃されると、藩当局による土佐勤王党に対する弾圧が始まります。弾圧の手は慎太郎にも及び、危険を察知した彼は10月19日土佐を脱藩して防州三田尻に走りました。そこで三条実美に拝謁し、11月招賢閣会議員となります。このころ、寺石鈍蔵と名を変えています。1864年7月19日、蛤御門の変では来島又兵衛の陣にあって奮戦しますが、負傷し、長州へ帰陣します。8月、忠勇隊隊長となり、高杉晋作の命に従い外国艦隊との戦いに備えます。11月には、京都で亡くなった真木和泉に替わって忠勇隊総督となり、三条実美に近侍するようになります。

3.薩長同盟
このころ筑前藩士早川養敬と会い、薩長同盟の必要性を聞き、その後の進むべき方向性を見いだしています。12月4日、三条以下五卿の移転について西郷隆盛と談判し、14日の西郷と高杉の会見には陪席、さらに翌1865年(元治2年、慶応元)年1月には移転条件について諸藩有志と交渉しています。3月に三条以下五卿に従い筑前太宰府に赴いたあと、4月30日に赤間関で桂小五郎と面談し、本格的に薩長同盟の斡旋に乗り出します。閏5月6日、鹿児島へ赴いて薩摩藩の説得を行い、西郷を伴って下関へ向かいます。しかし、一度長州と手を結ぶ事に同意したはずの西郷が突然翻意し、下関には寄らずに京都へ行ってしまいます。21日、失意の内に下関に上陸した慎太郎を待っていたのは、坂本龍馬でした。龍馬は、慎太郎とは別の経過を辿り、独自に薩長同盟に動いていたのです。ここから、慎太郎は龍馬と共同して薩長同盟に向けて奔走する事になります。竜馬の提案により、龍馬の主催する亀山社中を仲立ちとして、長州は薩摩名義で武器を購入し、見返りとして長州から薩摩に兵糧米を提供するという斡旋案を提示、薩長両藩の説得にあたります。そして、努力の甲斐あって1866年(慶応2年)1月22日遂に薩長同盟が成立、このとき慎太郎は長州にあって、2月6日に桂から結果を聞いています。6月に始まった第二次征長においては高杉晋作の騎兵隊の一員として従軍、奮戦した様子を手紙で故郷に知らせています。10月、「窃に知己に示す論」を著し、その中で日本を伺うロシアを始めとする外国勢力の脅威を分析しています。また、今後徳川家が生き残る道としては、朝廷に政権を返す大政奉還しかないと主張しています。これ以後、土佐藩を薩長と同じ倒幕の戦列に立たせるべく奔走を開始します。

4.陸援隊
1867年(慶応3年)2月、龍馬と共に脱藩の罪を許され、4月には陸援隊の隊長に任命されます。陸援隊は、先に組織された海援隊と対になるもので、土佐藩の白川藩邸に本部を置き、脱藩者で組織され、土佐藩の援助は受けますが、基本的には独立した組織でした。他藩の動静を伺い、遊説間諜の事を行うとありますから、情報操作や諜報活動といった任務を与えられていたようです。収入は海援隊の行う業務による利益を主としており、このあたりの表現は、「国に付せず暗に出京官に属す」、「その所給は多く海より生ず」という表現がとられています。規約は、次のとおりです。

陸援隊、海援隊約規(皇慶応三丁卯四月)

出京官                      
 参政一員  監察一員              
  付属書生(二員或ハ一員)           
 右書生、当時出京両府ノ自撰ヲ許ス。外藩応接ノ際並ニ陸援隊中ノ機密ヲ掌ル。
          
陸援隊                      
 隊長一人                    
 脱藩ノ者、陸上斡旋ニ志アル者、皆是ノ隊ニ入ル。 
 国ニ付セズ暗ニ出京官ニ属ス。          
 天下ノ動静変化ヲ観、諸藩ノ強弱ヲ察シ、内応外援、控制変化、遊説間蝶等ノ事 ヲ為ス。
      
出崎官                      
 略           

海援隊                      
 略 
     
 凡海陸両隊所仰ノ銭量常ニ之ヲ給セズ。其自営自取ニ任ス。但臨時官乃給之。固
 無定額。且海陸用ヲ異ニスト雖モ相応接、其所給ハ多ク海ヨリ生ズ。故ニ其所射
 利ハ亦官ニ利セズ。両隊相給スルヲ要トス。或ハ其所営ノ局ニ因テ官亦其部金ヲ
 収ス。則チ両隊臨時ノ用ニ充ツベシ。右等ノ処分京崎出官ニ討議ニ任ス。

5.大政奉還と近江屋事件
5月、乾退助と会談し、時勢を説いて土佐藩を倒幕勢力の列に加えるべきだと説得し、21日に板垣を西郷隆盛に引き合わせています。この結果、6月22日に薩土盟約締結が締結されるに至ります。これは、龍馬が作った船中八策を基にして、大政奉還路線を進めることを確認したものでした。また、同じ頃、岩倉具視と出会ってその信任を受けるようになり、岩倉と薩摩藩との連携のために奔走しています。10月15日の大政奉還が実現した一月後、11月15日に竜馬を近江屋に訪ね会談中に、見廻組に襲われて重傷を負い、その二日後絶命しました。享年30歳。
中岡慎太郎
(1838年(天保9年)〜1867年(慶応3年))
近江屋事件関連ページ


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