新選組結成当時の三局長の一人。水戸藩出身で、筆頭局長の芹沢鴨とは古くからの仲間でした。芹沢と同流の神道無念流で、免許皆伝の腕前です。浪士隊に応じる前は水戸天狗党に属していたとも言い、東禅寺事件に関係して牢に入っていたとも言われていますが、詳しい事は判りません。

浪士組では、三番組小頭となり、沖田総司の義兄林太郎や井上源三郎らを引率しました。文久3年3月の新選組結成時には、志士としての前歴の古さから、芹沢鴨、近藤勇と共に局長の座に付きます。ただ、局長としての活動については、大阪の平野屋に対して隊服を作成する資金の百両を催促する口上書に名前が残るほかは、特に記録はないようです。また、文久3年6月の編成表では、局長ではなく副局長と記されています。

通説では、芹沢と共に素行が悪く、勝手に金策をするなど隊規を破る事が甚しかったため、芹沢派を粛正せよとの会津藩の内意を受けた近藤派が、手始めとして祇園「山の緒」にて数々の隊規違反の証拠を示して新見錦を追いつめ、詰め腹を切らしたという事になっています。後でこれを聞いた芹沢は激怒しますが、優勢となった近藤派の前になすすべはなかったと言います。

ただ、新見の死については、幾つか異説があります。

まず、新見に切腹を申しつけたのは芹沢とする説です。新見が越前藩士矢島藤十郎から芹沢の名で借りた請求書が芹沢の下に届き、やむなく芹沢自らが隊規違反のかどで切腹の申し渡しをしたというものです。(別冊歴史読本「新選組の謎」)

また、別の説では、新見は隊規を破ることが甚だしく、また乱暴が酷ったため、近藤、芹沢が説諭してこれを収めようとしたのですが、新見は聞き入れようとしません。やむを得ず、一同の結論として新見を切腹させることに決まったのですが、その矢先、新見は四条木屋町に旅宿していた同藩の水戸浪士吉成常郎方でトラブルを起こし、同じく水戸浪士の梅津某の介錯によって切腹させられてしまったという説です。(永倉新八「浪士文久報国記事」)

さらに、霊山歴史館の木村幸比古氏に依ると、新見錦は霊山護国神社に祭神として祀られているそうで、ここは勤王派の志士だけが祀られる場所である事から、新見は勤王派の間者であり、それが露見した事から、密かに始末されたのではないかと推測されています。局長が間者であったという事を外部に漏らす訳には行かないため、内密に済ませたと言います。また、間者とまでは行かなくても、元天狗党員であった新見は、尊王派とのつきあいが多く、思想的にも近藤達とそりが合わない所があり、近藤によって粛正されたのではないかとも言われています。

新見錦の墓については、新見の名前では見あたらないのですが、壬生寺に田中伊織と記された墓があります。この墓に新見が亡くなった頃とされる9月13日の日付があること、また文献上に新見と田中の重複が見られないことから田中伊織が新見の本名ではないかと考えられており、これが新見の墓とされています。
新見 錦
(1835年(天保6年)〜1863年(文久3年))





田中伊織の墓の項参照