近江屋事件
1867年(慶応3年)11月15日に、京都河原町の近江屋で、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された事件です。
11月3日、越前より京都へ戻った龍馬は、それまで宿舎としていた酢屋が幕吏に目を付けられている事を知り、河原町蛸薬師南にあった土佐藩御用達の醤油商「近江屋」へ居を移します。近江屋では、土蔵を隠れ家として改造し、龍馬の用に供しました。万一の時には、この土蔵から梯子伝いに裏の誓願寺に逃げられるようになっていたと言います。また、ここは土佐藩邸とは河原町通を挟んですぐ向かい側となる場所でした。
11月13日、御陵衛士の伊東甲子太郎が近江屋へ訪ねてきます。用件は、「新選組が、全力を挙げて龍馬を狙っている。藩邸に移られてはどうか。」という忠告でした。元は新選組の参謀を勤めていた伊東の言ですから信憑性はあったと思われるのですが、龍馬はこれを無視します。
11月15日は、龍馬33歳の誕生日にあたります。この日、龍馬は風邪のせいで熱があったため、土蔵で寝ていました。午後になり、龍馬は近所に住んでいた福岡籐次を2度訪ねますが、2度とも留守であったため近江屋へ引き返します。このとき、福岡の下僕から「不審な人物が坂本先生を訪ねてきた。」と注意されていますが、龍馬は笑って応えただけでした。実は、この外出からの帰宅を刺客の放った密偵に見られており、在宅している事を知られたようです。夕方、中岡慎太郎が訪れます。三条大橋制札事件で、新選組に捕らわれ獄にあった宮川助五郎の引き取りの相談があったと言います。宮川については、京都町奉行所から身柄を土佐藩に引き渡すと通知があったのですが、土佐藩は脱藩中の彼の取り扱いを決めかね、陸援隊の慎太郎に引き受けるよう依頼が来ていたものです。慎太郎と応対するため、龍馬は母屋の2階奥の八畳間へと移ります。
夜に至り、慎太郎に使いを頼まれていた菊屋峰吉(土佐藩出入りの書店菊屋の長男で当時17歳、龍馬、慎太郎達に可愛がられていました。)が、慎太郎宛の手紙を持って来ます。そしてほぼ同時刻に、今度は土佐藩の下横目である岡本健三郎が訪ねてきました。彼らは暫く雑談に興じた後、龍馬は峰吉に「腹が減ったので、軍鶏を買って来てくれないか。」と頼みます。峰吉が席を立つと、岡本も別の用事があると言って一緒に外に出ます。岡本と四条の辻で別れた峰吉は、四条小橋にあった鳥新へと向かいますが、生憎品切れであったため、新しい肉が用意できるまで四半刻待たされます。
この二人と入れ違うように近江屋に客が訪れました。「頼もう」という声が2階に届き、応対のために龍馬の下僕の山田藤吉が階下へ下ります。この藤吉は、元「雲井龍」という四股名の力士で、力士を廃業したあと海援隊の長岡謙吉に拾われ、龍馬の用心棒を兼ねて付き人をしていました。客は1人で十津川郷士と名乗り、藤吉に名刺を渡し龍馬への面会を申し込みます。藤吉は、十津川郷士なら龍馬の知り合いが多く、また客が1人であったため特に怪しむことはせず、取り次ぎのために2階へ向かいます。このとき、客の背後にいた数人の男達が、屋内に入り込みます。そして藤吉の後を追い、階段を上り詰めたところで背後から藤吉に斬りかかりました。数太刀を受けて藤吉は倒れ込みます。この気配を聞いた龍馬は、室内から「ほたえな!」と叫びます。峰吉が帰ってきて、藤吉とふざけているとでも思ったものでしょうか。この声により、刺客は龍馬の居所を知ります。
襖を開けて中に飛び込んだ刺客達は、龍馬と慎太郎に襲いかかります。龍馬は初太刀を前頭部に受け、慎太郎は後頭部に受けます。このとき、二人とも手元に太刀はなく、慎太郎は身に付けていた短刀で渡り合い、龍馬は床の間にある刀を取ろうとして振り向きますが、その時さらに背中を斬りつけられます。ようやく刀を手にした龍馬は、敵の三の太刀を鞘ごと刀で受け止めますが、敵の斬撃は凄まじく、龍馬の太刀の鞘を割った上に、中の刀身を10pばかりを削り取ります。そして、前頭をさらに深く切られた龍馬は遂に崩れ落ち、「清君、刀はないか。」と叫びます。一方、鞘を付けたままの短刀で戦っていた慎太郎は、全身に十一カ所の傷を受け、堪えきれずに倒れ伏します。これを見た刺客は、とどめを刺す事はせず、「もう良い、もう良い。」と言葉を残して立ち去りました。
暫くして意識を取り戻した龍馬は、全身血まみれになりながらも座り直し、佩刀の鞘を払って刀身をじっと見入り、「残念だった。」とつぶやきます。そして、慎太郎に向かって「慎の字、手が効くか。」と問いかけ、続けて階下へ向けて「新助、医者を呼べ。」と叫びますが、すでにその声に力はなく、誰にも届かなかったようです。龍馬は、頭の傷に手をやり、脳漿が流れ出ている事に気づくと、「慎の字、おれは脳をやられている、もういかぬ。」と、最後の言葉を残して息を引き取りました。
慎太郎はなおも息があり、物干し出て近江屋の者へ声を掛けますが誰も応えず、さらに屋根を伝って北隣の井筒屋へ助けを求めますが、ここで動けなくなってしまいます。この頃近江屋の主人新助は、土佐藩邸へ駆け込んでいました。新助の注進により島田庄作が駆けつけます。島田は、階段の下で刺客が出てくるのを待ちかまえていましたが、程なく帰ってきた峰吉が様子を見に階段を上がり、まず苦しんでいる藤吉を発見し、刺客の気配がない事を確かめた上で島田を呼び、一緒に2階へ上がります。そして、既に縡切れている龍馬を発見し、さらに屋根の上で動けなくなっていた慎太郎を見つけて、これを座敷に連れ戻しまた。島田達は、すぐに医師を呼び慎太郎の手当を始めます。知らせを受けた藩邸やその周辺から谷守部、曽和慎九郎、毛利恭介らが駆けつけ、さらに峰吉の注進により白川の陸援隊の本部から田中顕助が、薩摩藩邸からは吉井幸輔が集まって来ました。
慎太郎は、集まった仲間に次のように語ります。
まず、刺客については、
「卑怯憎むべし、剛胆愛すべし。」
と、引き上げの見事さを褒めています。また、同士に対する警告として、
「刀を手元に置かなかったのが、不覚の元だ。諸君、今後注意せよ。」
「坂本と自分をやるなどは、よほどの武辺者であろう。因循遊惰と馬鹿にしていた幕府にも、まだこんな者が居る。早くやらねば逆にやられるぞ。」
と諫めました。慎太郎は、一時食事を摂るまでに回復の兆しを見せましたが、再び悪化し、17日夕刻に息を引き取っています。最後に、香川敬三に対して、
「岩倉卿に告げよ。維新回転の実行は、一に卿のお力によると。」
と言い残しました。享年30歳。また、これに先立ち、16日夕刻に藤吉も同じく息を引き取っています。享年25歳。
3人の葬儀は18日に営まれ、東山霊山へ葬られています。葬儀には、海援隊、陸援隊士のほか、土佐藩、薩摩藩から大勢の藩士が参列したという事です。
さて、龍馬と慎太郎を襲った犯人ですが、当時から様々な憶測がされています。まず、疑われたのは新選組でした。これは、慎太郎が仲間に残した「相手が斬りかかってくる時、こなくそ、と言った。これは四国の言葉である。」という証言、そして当日現場に残っていた刀の蝋色の鞘について、伊東甲子太郎が新選組の原田(四国松山出身)のものに似ていると証言したこと、さらに近江屋に残っていた下駄が新選組が多く出入りする先斗町の瓢亭のものと思われたためでした。土佐藩では、後々までこれを疑わず、さらに海援隊では新選組を動かしたのはいろは丸事件で恨みを持つ紀州藩であると断定し、天満屋事件を起こすに至ります。しかし、当初から新選組ではこれを否定しており、また、下駄についても瓢亭のものではなく、祇園中村屋(中村楼)と下河原かい(口偏に會)々堂のものとする同時代の資料があり、現在では否定されているようです。
次に、明治になって見廻組の今井信郎、渡辺篤らが、自ら行ったと認める供述を行っており、今ではこれが定説になっています。当日近江屋を襲ったのは、佐々木只三郎を筆頭に、桂早之助、渡辺篤、今井信郎、高橋安次郎、桜井大三郎、土肥仲蔵でした。このうち、だれが実際に龍馬と慎太郎を切ったのかは佐々木只三郎、今井信雄、桂早之助、渡辺篤など諸説があり、正確には判りません。京都の霊山歴史館では、桂早之助と推定し、そのとき使った刀も保管されています。見廻組にとっては、龍馬は寺田屋において捕り方を射殺した殺人犯であり、龍馬を襲ったのも警察権の行使でした。これについては、峰吉の証言の中に出てくる井口家(近江屋)に伝わる話として、「佐々木見廻組頭の声で、この場合何か申し置く事があらば承ろうと言うのと、坂本さんの声で言い残す事は沢山にあるが、しかし汝等に言うべき事は毫もない、思う存分殺せ。と言う声が聞こえました。」というものがあり、問答無用の暗殺ではなかった事が伺えます。ただし、慎太郎を巻き添えに殺した事は大きな誤算で、土佐藩との軋轢を恐れて内密にしたのが真相だったようです。
この他の説として、土佐藩の内部抗争であるとする説、薩摩藩の指示を受けた伊東甲子太郎率いる御陵衛士とする説などがあります。また、薩摩藩の中でも指示を出したのは大久保利通とする説、桐野利秋とする説に分かれます。これは、当時龍馬を巡る情勢はそれほどまでに複雑なものであったという事を物語るものでしょう。