・巽橋
下里家住宅から再び切り通しへと引き返し、今度は石畳の道へと入る。ここから白川南通、新橋通にかけては祇園新橋伝統的建造物群保存地区に指定されており、四条以北では最も風情ある町並みが残されている地域である。
切り通し
おなじ切り通しでも「いづう」のあたりは雑居ビル街で情緒も何もあったものではないが、一歩この道に入ると世界が一変する。料亭「新山」の横から続くこの石畳の道は、祇園の中の祇園と言うべき場所であり、程よい狭さが祇園らしい風情を醸し出している。
巽橋
切り通しが白川と交わるところに掛かる橋。低い木の欄干が小さな橋と調和してなんとも雅やかな姿である。祇園の中でも最も絵になりやすい場所であり、撮影ポイントとしてもお勧め。ただし、常に人だかりがしているので、シャッターを押すタイミングが難しい。
ニジゴミムシダマシ
巽橋のすぐ近くで見つけたニジゴミムシダマシ。この写真では判りにくいが、その名の通り虹色に輝く美しい甲虫である。まさか祇園の真ん中で見つかるとは思っていなかったが、調べてみるとこの虫は朽木を好むとあり、古い木造家屋の多いこのあたりには、案外沢山居るのかもしれない。
辰己大明神
巽橋のすぐ近くにあるこの神社は、辰己稲荷と紹介されることもあるように稲荷社と思われ勝ちだが、実は狸を祭神として祀っている。昔、巽橋にいたずらな狸が棲んでおり、橋を渡る人を化かしては川の中を歩かせていた。難儀した人々はこの狸の為に祠を建て神様として祀ったところ、いたずらは止んだという。今では芸事の神様として祇園の舞妓達の信仰を集めている。
・白川南通
辰己大明神の左側、白川に沿いの道が白川南通である。他の祇園の道に比べて随分と広く感じるが、実は第2次世界大戦において強制疎開があったためであり、かつては細い道を挟んでお茶屋が建ち並ぶ地域であった。思わぬ所に戦争の傷跡が残っているものである。
白川南通
大和大路(縄手通)から辰己大明神までの短い距離を結ぶ道。白川と調和した町並みが素晴らしい。また、ここは桜の名所でもあり、春、桜が満開の頃訪れると息を呑むような美しさに目も眩む思いがする。夜桜も美しいが、朝誰もいない頃、朝日に輝く桜を見に来ると、花を独り占めにしたような贅沢な気分に浸れる。
吉井勇歌碑
歌人、劇作家として知られる吉井勇は1886年(明治19年)に東京に産まれる。伯爵家の出ながら放蕩の生活を好み、北原白秋、石川啄木らと親交を結ぶ。明治43年処女歌集「酒ほがひ」で歌壇にその地位を築いた。京都を愛し、1938年(昭和13年)から1960年(昭和35年)に亡くなるまで京都で暮らしいた。この間、都おどりの復興など祇園のために力を尽くした。この碑は吉井勇の古希を記念して建てられたものである。この場所は文芸芸鼓として知られ、また吉井勇と親交のあった磯田多佳女が女将を務めていたお茶屋「大友」の跡であり、碑に刻まれている歌もここで詠まれたものだと言う。
「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」
この歌は部屋のすぐ外を白川が流れているという比喩だと思っていたのだが、大友は白川に張り出して建てられていたようで、実際に床の下を川が流れていたらしい。今回調べて判った意外な事実である。
・新橋通
新橋通は辰己大明神の右側、大和大路(縄手通)から東大路通に至る道である。祇園新橋伝統的建造物群保存地区に該当するのは、花見小路の少し手前から西側一帯である。
新橋通
この通りは白川南通りと違って両側に伝統的な建物が並び、昔ながらのお茶屋街らしい風情を保っている。しかし、内情はそう単純なものではないらしい。たとえば、格子戸をくぐると車庫になっていたり、会員制のクラブだったりと見かけとは随分異なるようだ。しかし、そういう努力と工夫によって町並みが保たれているのは素晴らしい事だと思う。
露地
辰己大明神のすぐ前から新門前通へ抜ける露地(ろーじ)。京都には、こうした通りと通りをつなぐ小径が多い。
・新門前通
新橋通のすぐ北を通る道が新門前通である。古門前通とともに知恩院の門前街として栄えて来た。祇園の北限は概ねこのあたりになる。
新門前通の看板
上の露地を抜けた所にある新門前通の看板。新門前通は古美術商の多い街として知られる。これについては、祇園東の項で触れる事にする。
財団法人 片山家能楽・京舞保存財団
上の看板から新門前通を西に少し行った所にある片山家能楽・京舞保存財団。観世流能楽と京舞井上流の保存、普及を目的としている。毎年12月13日の事始めには、祇園甲部の舞妓・芸妓が「おめでとうさんどす」と鏡餅を持ってあいさつに訪れる場所である。