・祇園界隈
祇園と言えば京都屈指の繁華街、夜の街として知られる。しかし、日中散歩道として歩いても面白い街である。ここではそんな祇園の魅力を伝えてみたい。
・祇園石段下
八坂神社西楼門から繋がる石段の下、四条通が東大路通と交わって尽きるあたりを指す。人も車も集まる場所で、一日中賑わいが絶える事がない。祇園界隈の散歩はここから始める事とする。
祇園
祇園の地名は八坂神社の古名「祇園社」に由来する。その祇園社の名の起こりには諸説あり、八坂神社の前身でこの地にあった「祇園寺」から来ているという説や、渡来人がこの地に祀った牛頭天王(八坂神社の祭神である素戔嗚尊と習合の関係にある)が祇園精舎の守護神であったことから来ているという説が有力なところだが、正確な事は判らない。
祇園の街は、祇園社の参拝者をもてなす町として始まり、寛文年間(1661〜73)公許の郭として認められた事から発展した。今でも舞妓や芸妓と遊ぶお茶屋や数多くのスナック・バーが集まる京都随一の歓楽街である。
・祇園甲部
祇園は、大きく二つに分かれる。四条通と花見小路で祇園を四分割したとして、東北に当たる部分を祇園東(祇園乙部)、それ以外を祇園甲部という。この散歩道はまずは甲部から始める事としたい。
祇園石段下の南側の横断歩道で東大路通を渡り、左へ少し歩くと細い道と出会う。その道を右に曲がると坂道になっていて、下りきった右側に鋼製の門があり、その向こうに薄緑の屋根を持つコンクリートの建物が聳えている。これが弥栄中学校である。
弥栄中学校
祇園のど真ん中にあるというだけでもユニークな学校だが、調べてみると結構面白い事が判る。まず、ここは日本で最初の小学校(戦後の学制改革で中学校に変わった)である。ただし、これには異説もあるようだ。また、その初代校長が一力の九代目当主であったという事がいかにも祇園の小学校らしくて興味深い。
この中学は舞妓修行中の子(仕込みさん)が通う中学でもある。舞妓の多くは地元出身ではなく、日本の各地から舞妓にあこがれて祇園にやってくる。そして屋形(芸者置屋)に住み込み、この中学に通いながら修行に励むのである。昼間、ここで見せる素顔は、しかし普通の女子中学生と何ら変わる所はない。
・崇徳天皇御廟
弥栄中学校の前の道をずっと南へ下っていくと、祇園甲部歌舞練場の裏手に出る。その一角に注連縄を飾った祠のような場所があり、崇徳天皇御廟と書いた石碑が立っている。保元の乱で破れ讃岐の地に流され亡くなった崇徳天皇の御遺髪が埋葬されている場所である。
崇徳天皇御廟
崇徳天皇は1156年(保元元年)保元の乱に破れて讃岐の国に流され、そのまま彼の地で亡くなった。この御陵は、天皇の寵愛が厚かった阿波内侍が御遺髪を請い受けて、霊を慰めるべくこの地に塚を築いたものである。しかし、その後天皇の怨霊は猛威をふるい、平清盛の死もその祟りと言われる。人々は、この地に諸堂を建ててその怒りが鎮まるのを願ったが、今ではこの廟を残すのみとなっている。
ここは最近サッカーの神様として知られるようになったが、これは崇徳天皇を祀った白峰神社(上京区今出川通堀川東入ル)に合祀されている鞠の精「精大明神」が蹴鞠の神様としてサッカー関係者の信仰を集めている為であり、崇徳天皇と直接の関係はないようだ。
・八坂女紅場学園
崇徳天皇御廟から元来た道を引き返し、一筋目を左に入る。さらに左一筋目を左に曲がると歌舞練場の北の門がある。その門の左にほとんど文字の消えた看板があり、よく見ると「八坂女紅場学園」と読める。ここは祇園の舞妓、芸妓のために作られた学校である。
八坂女紅場学園
明治五年に創設された舞妓・芸妓が芸事を習うための学校。その科目は舞・能楽・長唄・一中節・常磐津など多岐に渡る。舞妓になる前の仕込みさんは、昼は弥栄中学に通い、その放課後はここ女紅場で芸の修行に励む。また、ここは卒業というものがなく、ベテランの芸妓になっても練習に通う。芸の世界に終わりはないのである。
・キヌ美粧院
八坂女紅場学園から元の道に引き返して左に折れ、今度は右二筋目を右に入るとキヌ美粧院の看板が目に入る。ここは、舞妓・芸妓が日本髪を結いに来る美容院である。
キヌ美粧院
舞妓・芸妓の御用達であるが、一般の人でも利用出来る。また、ペンション祇園での舞妓体験での髪結いも行っている。
キヌ美粧院近くの町並み。このあたりは、最も祇園らしい風情を感じさせてくれる地域の一つである。
・花見小路
キヌ美粧室の前を左に折れ、少し歩くと広い通りに出る。花見小路だ。ここは、休日になると人混みで溢れる。これには少々訳があって、歌舞練場の隣にWINSがある事が大きい。祇園甲部の周辺に警備員が数多く見られるのは、このWINSの客や車を捌くためである。
花見小路
花見小路は三条通から建仁寺まで続く道である。1874年(明治4年)に、建仁寺の境内であったおよそ7万坪の土地が京都府によって上地され、それを祇園甲部お茶屋組合が譲り受けて花街として開発したのだが、その時に町を貫く道路としてつけられたのがこの道である。
近年、四条から南については、京都市の「祇園花見小路計画」により電信柱のない石畳の道に整備され風情を増した。