橋本宿
橋本は、京街道の宿場の一つとして栄えた町です。その始まりは奈良時代に遡り、行基が725年に架けたと言われる山崎橋の橋のたもとにあたる事から、その名が付いたと言われます。この山崎橋は文禄年間の架橋を最後に架けらることはなくなり、代わって渡し船が対岸の山崎との間を結ぶ様になります。この渡し船は、1962年(昭和37年)まで運行していました。橋本宿は、また橋本遊郭として栄えた所でもあり、元禄時代から戦後に廃止されるまで、大いに賑わいをみせていました。写真は、その橋本遊郭の名残りを残す界隈の町並みです。


橋本宿の位置
橋本(楠葉)砲台跡
元治元(1864)年、徳川幕府は、大阪湾から淀川を通って京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸の楠葉と右岸の高浜に砲台を築きました。両砲台に設置された砲は、カノン砲4門づつだったとと考えられています。
1868年(慶応4年)1月6日の戦いで、幕府軍は、橋本宿に本陣を置き、官軍を迎え撃ちます。ここを守っていたのは、会津藩、新選組、見回組、遊撃隊でした。ここは、淀川に男山が迫る隘路になっていて防御に向いており、かつ淀川を挟んだ2つの砲台が大きな戦力になる筈でした。午前7時頃、薩摩軍の発砲により、戦闘が始まります。幕府軍は、橋本宿の入口に胸壁を築き、官軍との間で小銃戦を開始します。戦況は、一進一退の様相を呈していました。


橋本(楠葉)砲台の位置
ところが、正午頃、対岸の高浜砲台を守っていた津藩藤堂家が、官軍の調略に乗って寝返り、小浜藩酒井家が守る橋本(楠葉)砲台に砲撃を浴びせかけて来ました。これにより、淀川を挟んで両砲台は交戦することとなります。橋本宿を守備していた幕府軍は、側面からの砲撃を受け、混乱に陥りました。これに対して幕府軍は、高浜砲台に会津兵を差し向け、激戦の末藤堂兵を追い払う事に成功します。この報に接した橋本の新選組、見回組等はなお戦おうとしますが、混乱に乗じた薩摩軍の攻勢は激しく、ついには戦線を支えきれなくなり、橋本陣屋を目指して敗走を始めます。橋本(楠葉)砲台の守備兵は、砲弾を全て撃ちつくしたのち、砲を破壊して退去しました。この頃、新選組の永倉新八、斉藤一の二人は、兵を率いて男山の中腹で戦っていました。二人は、味方が敗走を始めたのに気づ


高浜砲台の位置
1864年(元治元年)7月19日の蛤御門の変に破れたの後、生き残った真木和泉ほか16名の志士が天王山に籠もりました。幕府は、会津藩、新選組、見回組に掃討を命じます。21日、新選組等は、伏見から橋本に至り、淀川を渡って山崎に至ります。新選組は近藤勇、土方歳三、永倉新八、斉藤一ほか40名程の隊士が参加していました。土方は山下を固め、近藤、永倉、斉藤らが山上へ迫ります。永倉、斉藤は、山腹の宝寺に籠もっていた長州軍を攻め、近藤は会津番と共に山頂へと迫ります。最初、真木達は小銃で応戦しましたが、すぐに抵抗をあきらめ、陣に火を放つと次々と自刃していきました。現在、天王山には十七烈士の墓が残っています。
天王山


天王山の位置
戊辰役戦没者供養墓
枚方市舟橋にある戊辰戦争戦没者を供養する墓(中央)です。ここは、かつて京街道が舟橋川を渡っていた場所で、幕末の頃には橋が架かっていました。鳥羽伏見の戦いの時に、このあたりで命を落とした兵士達8人の名が刻まれています。当時の戦いの凄惨さを偲ばせる供養塔です。


戊辰役戦没者供養墓の位置
橋本付近から高浜砲台跡方面を望む
くのが遅れ、あわてて後を追った時には、味方が全て去った後でした。このため、永倉と斉藤の兵は官軍の包囲の中に陥ります。二人は、苦戦しながらも官軍の包囲の一方を打ち破る事に成功し、橋本の陣屋までたどり着きます。
陣屋で開かれた軍議の結果、橋本を放棄して大阪城へ引き上げることとなり、ここに四日間に渡った鳥羽伏見の戦は、官軍の勝利の内に終わりを告げます。なおこの日の戦いで、新選組は4人の死者を出し、また見回組の佐々木只三郎も重傷を負い、後日その傷が元で紀州で亡くなっています。
淀から橋本 其三 
淀城址
淀小橋旧趾
淀堤千両松跡
鳥羽伏見之戦跡地の碑
石清水八幡宮
石清水八幡宮行幸
石清水八幡宮と蛤御門の変
石清水八幡宮と鳥羽伏見の戦
橋本宿
橋本砲台跡
天王山
戊辰役戦没者供養墓
ホ ー ム
散 歩 道
壬生界隈
其の二
其の三
其の四
其の五
島原から七条
其の二
其の三
其の四
洛中の道
其の二
其の三
其の四



京都御所周辺
其の二
其の三
其の四
東山界隈
其の二
其の三
伏見界隈
其の二
其の三
其の四
淀から橋本
其の二
其の三
大阪の道