東山界隈其三
龍馬坂
二年坂から霊明神社へ向かう道を、龍馬坂と呼びます。1867年(慶応3年)11月18日、河原町の近江屋で刺客に襲われ命を落とした、坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉の3人の葬儀がとり行われました。3人の遺体は勤王の志士の聖地である霊明神社の境内に葬られる事となり、この道を通って霊山へと運ばれました。大勢の人達が見送ったと言われるこの道も、今では訪れる人も少なく、静かな佇まいを見せています。
龍馬坂の位置
明保野亭跡
幕末に、志士達の会合がしばしば持たれた料亭。現在は、わずかにこの茅葺きの門だけが当時の面影を伝えています。
1864年(元治元年)6月10日、明保野亭に浪士が潜入しているという情報を得た新選組は、武田観柳斎以下隊士を派遣します。このとき、会津藩からも藩士が応援に派遣されており、その一人が柴司でした。柴は、明保野亭から逃げ出そうとした男を槍で傷つけます。ところが、その男は正規の土佐藩士麻田時太郎でした。故無く藩士を傷つけられた土佐藩は治まらず、会津藩との間で一触即発の危機を迎えます。会津藩は、土佐藩の慰留に努めますが、麻田が傷を受けた事を恥として切腹してしまいます。これを受けて、会津側でも柴に切腹を命じ、ようやく事件は収拾を見ました。錯覚が二人の命を奪った悲しい事件ですがこれを明保野亭事件といいます。
明保野亭の位置
三年坂(産寧坂)
三年坂は、807年(大同3年)に出来たと言われる坂ですから、1200年近い歴史を持っている事になります。清水寺に近いという場所柄もあってか、古くは一寸法師など数々の説話や小説の舞台になっています。幕末に関しては、明保野亭がある場所としてしばしば登場します。例えば「新選組血風録」の「武田銭取橋」では、三年坂と明保野亭がセットになって出て来ます。当時の明保野亭は上に紹介した場所にあり、史実とは異なるのですが、それほどなじみの深い地名で、小説に使いやすい場所という事だと思われます。
三年坂(産寧坂)の位置
清水寺
清水寺と維新史の関係は深く、塔頭寺院である成就院の住職であった月照上人が、西郷隆盛と共に活躍した勤王家であった事が知られています。また、境内に残る「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」は、いずれも月照上人と深く関わった茶屋です。
清水寺の位置
清水寺音羽の滝
音羽の滝は清水寺の発祥の元になった滝ですが、名水として知られお茶を点てるのには最適の水とされています。「新選組血風録」の「沖田総司の恋」においても、沖田の思い人「悠」が、お茶を点てる水を汲みに来るという設定で登場します。そして、この物語は、総司が悠を思いながら滝の水に触れてみるという、とても印象的な場面で終わっています。この作品は、沖田総司のイメージを確定した名作と言って良く、その舞台として音羽の滝は相応しい場所だったのでしょう。
清水寺音羽の滝の位置
京の秋の灯ともしごろ
「新選組血風録」の「沖田総司の恋」における土方歳三。清水坂を下りながら、「京の秋の灯ともしごろというのは、いいものだなあ、総司。みんな生きてやがるなあ、てえ感じがする。」
其の四