東山界隈 
小川亭之跡
幕末期に、主として肥後の志士に良く利用された旅館「小川亭」があった所です。小川亭の女将テイ女は、勤王の志士達の面倒を良く見た事から、明治以後も勤王ばあさんと呼ばれて親しまれていました。小川亭とてい女は、司馬遼太郎の「燃えよ剣」の中の「三条碩乱刃」に登場しています。
小川亭の詳細については、次のボタンを押して下さい。




小川亭之跡の位置
小川亭之跡
山の緒跡
新選組局長「新見錦」が切腹をしたいう、貸座敷「山の緒」の跡です。山の緒については、正確な場所は判っていませんが、ここではおおよその推定の位置を示しています。
新見錦の詳細については、次のボタンを押して下さい。


山の緒跡の位置
祇園会所跡
祇園会所は、池田屋事変の際に、新選組が探索を開始する前に集合したとされる場所です。正確な位置は判りませんが、祇園石段下にあったとされることから、現在のコンビニエンスや交番、弥栄中学校のあるあたりではないかと推定されています。
写真の中の三角屋根の建物が、祇園石段下交番。祇園会所の後身として、ふさわしい施設ではないでしょうか。


祇園会所跡の位置


祇園北林
1863年(文久3年)に、新選組主催の相撲興行が行われた場所です。興行は8月7日から7日間に渡り、その間隊士が警備にあたって、京都市民に好感を与える事に成功したようです。
祇園北林は、当時は八坂神社の境内だったのですが、明治になり円山公園として整備され、現在では市民の憩いの場となっています。


祇園北林の位置
月真院
月真院は高台寺の塔頭のひとつで、1616年(元和2年)に三江紹益を開祖として、北政所の従弟久林玄昌によって建立されています。臨済宗建仁寺派に属し、千体地蔵菩薩を御本尊とします。庭園は小堀遠州の作。また、境内に織田有楽斎の邸宅より移植しという有楽椿があります。
1867年(慶応3年)6月8日、伊東甲子太郎が率いる御陵衛士がここを屯所としています。


月真院の位置
御陵衛士の詳細については、次のボタンを押して下さい。


一力亭
祇園の中でも最も由緒のあるお茶屋のひとつで、仮名手本忠臣蔵に登場しています。元は「万亭」といい、いつの頃からか万の字を一と力に分けて「一力」と名乗るようになりました。
1863年(文久3年)10月10日、ここで開かれた会津藩主催の公武合体派の会合に新選組局長近藤勇が出席し、公武合体の上での攘夷論を披瀝しています。近藤は、その後も何度かここを訪ね、中西君尾とのエピソードを残しています。また、大久保利通の愛妾おゆうが座敷に出ていたため、西郷隆盛も大久保につき合い出入りしていたそうです。


一力の位置
山の緒跡
一力亭
祇園会所跡
祇園北林
月真院
維新の道
霊明神社
京都霊山護国神社
坂本龍馬、中岡慎太郎の墓
坂本龍馬、中岡慎太郎の像
木戸孝允(桂小五郎)の墓
霊山歴史館
翠紅館跡
ホ ー ム
散 歩 道
壬生界隈
其の二
其の二
其の三
其の四
其の五
島原から七条
其の二
其の四




八坂神社の南楼門をくぐったところにある料亭が、二軒茶屋「中村楼」です。戦国期にはすでにあったという老舗で、当初参道を挟んで東西二軒の茶店があった事から二軒茶屋と名付けられました。現在残っているのは東側の茶店で、江戸期に売り出した田楽豆腐で有名になり、その後の基礎を築いています。
坂本龍馬が暗殺された近江屋事件のときに現場に残されていた下駄は、通説では瓢亭となっていますが、同時代の資料ではこの中村楼のものとなっています。今井信雄の供述書では、近江屋へ向かう前に東山を逍遙していたとありますから、その時に中村楼にも立ち寄ったものと思われます。
中村楼


中村楼の位置
中村楼
龍馬坂
明保野亭跡
三年坂(産寧坂)
清水寺
清水寺音羽の滝
其の三
京の秋の灯ともしごろ
京都御所周辺
其の二
其の三
其の四
東山界隈
其の二
其の三
伏見界隈
其の二
其の三
其の四
淀から橋本
大阪の道
洛中の道
其の二
其の三
其の四
其の二
其の三