洛中の道 其三
池田屋騒動之址
1864年(元治元年)6月5日早朝、新選組は兼ねて内偵中であった桝屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕らえます。彼の家からは多数の武器弾薬と書類が押収され、さらに彼自身の自白から尊攘派浪士の密謀が明らかになります。すなわち、烈風の日を選んで御所の風上に火を放ち、また中川宮にも放火して、あわてて馳せ参じるであろう京都守護職を襲って軍神の血祭りに上げ、騒ぎに乗じて禁裏に推参して天皇の長州への遷座を図り、さらに六角獄にも火をかけ、平野国臣ら捕らわれた同志を救出するという過激なものでした。
池田屋騒動之址の位置
長州藩京都藩邸跡・桂小五郎像
幾松(桂小五郎寓居跡)
佐久間象山先生遭難之碑
大村益次郎御遭難之碑
武市瑞山先生寓居跡(四国屋丹虎跡)
吉村寅太郎寓居跡
三条大橋
池田屋騒動之址
酢屋
土佐藩邸跡
土佐稲荷・岬神社
ホ ー ム
散 歩 道
壬生界隈
其の二
其の三
其の四
其の五
島原から七条
其の二
其の三
其の四
洛中の道
其の二
其の三
其の四



当日、新選組では病人が多く、出動出来たのは、わずかに34名に過ぎませんでした。彼らは、数名づつ壬生の屯所を出て祇園会所に集合します。そこから二手に分かれて、近藤隊10名は鴨川から西を、土方隊24名は祇園一帯を受け持ち、午後七時頃から探索を開始します。土方隊の方が人数が多いのは、受け持つ区域が広いためでした。この日は祇園祭の宵山で、町には祇園囃子が溢れてたと言います。
やがて会津藩などによる池田屋の包囲も完了し、2時間以上に渡った浪士達の抵抗も終わりを告げます。この戦闘での死者は、池田屋内で宮部鼎蔵、北添佶麿、伊藤弘長、大高又次郎、福岡祐次郎の5人、長州藩邸脇で吉田稔麿、路上で石川潤次郎、広岡浪秀、望月亀弥太の3人が確認され、合計9人に上っています。他に周辺で巻き添えを受けて亡くなった者が4名、身元のわからない死者が3名居ました。また、捕縛されたものは20数名、脱出したものが10名という結果でした。新選組側の損害は、死者が奥沢栄助、新田革左衛門、安藤早太郎の三名、重傷が藤堂平助、他に長倉新八が右手の親指を切られるという怪我を負っています。
新選組では、直ちに守護職や所司代に通報するとともに、浪士が会合していると思われる祇園から木屋町にかけての一帯を、四条から三条に向けて探索に取りかかります。通説では、あらかじめ池田屋に潜伏していた山崎蒸が浪士の会合を突き止めていたとなっていますが、その後の研究では、そうした事実はなかったようです。どこかで古高捕縛を受けた会合が行われているはずと見込んだ上で、旅館や料亭をしらみつぶしに探索していくローラー作戦を展開した結果、偶然池田屋で浪士達と遭遇したというのが事実に近いのではないかと言われています。
午後11時半ごろ、土方歳三の部隊が池田屋に到着します。土方達は、通説では四国屋に探索に出かけていて、そこが空振りだったので池田屋に駆けつけたとされていますが、池田屋と四国屋は、わずか百数十mしか離れておらず、それほど時間が掛かるはずはありません。やはり、近藤隊と同じくローラー作戦でずっと離れた所を探索していたため、連絡を受けるのが遅れたと考えるのが自然と思われます。土方隊の到着で、形勢は新選組に一気に傾きます。ここから近藤は、浪士を生け捕るように命令を変えます。
一方、古高の捕縛を知った浪士達は、善後策検討のために三条小橋西の池田屋で会合を開くべく同士に回状を回します。池田屋に集まったのは宮部鼎蔵他30数名で、このとき約束の時間より早く池田屋に来た桂小五郎は、他の同士がまだ誰も来ていなかったため対馬藩邸に別の用事で赴き、危うく虎口を脱がれています。近藤勇以下10名の隊士達が池田屋に御用改めをかけたのは、午後十時頃のことでした。浪士達が会合をしているそのただ中に近藤が踏み込みます。浪士達にとって不意打ちなら、近藤達にとっても予期せぬ大勢の相手でした。ここに、いわば不期遭遇戦が開始されます。近藤と一緒に踏み込んだのは沖田、藤堂、永倉、倅周平の4人で、武田、谷ら後の5人は階下の固めに回りました。
池田屋事変で命を落としあるいは捕縛されたものは、尊王派の志士の中でも指導者クラスであったものが多く、明治維新が3年遅れたと言われています。しかし、一方では、長州藩の暴発による蛤御門の変を誘発し、結果として維新の到来を早めたとも言われています。確かに言えるのは、この事変以後、新選組がその勇名を天下に轟かせることになったという事でしょう。
池田屋事変による志士達の亡骸は、小川亭の女将てい女等によって身元が確認され、三条大橋東詰にあった三縁寺に葬られました。後日談として、この三縁寺は京阪電車の地下化工事のために岩倉へ移転し、その時墓もまた移されたのですが、池田屋事変の犠牲者9名の名前を彫った墓から15名分の頭骨が出て来たそうです。これは新たな謎として今でも真相は掴めていないようです。
三条小橋付近
池田屋の現状
永倉新八の後日談では、近藤が「無礼すまいぞ!」と叫んで、戦闘が始まったと言われています。いきなり踏み込まれた浪士達が、手元にあった銚子や皿を投げつけたものでしょうか。池田屋の屋内は非常に狭く、天井は手を伸ばせば届くような高さだったと言われています。また、踏み込みと同時に行灯の火が消されたため、顔の区別も付かないような闇の中でした。人数から言えば浪士達の方が圧倒的に有利で、逃げる事も可能(実際に10数名の志士が池田屋から脱出しています)でしたが、相手が少人数という事もあったのでしょう、多くは近藤達に立ち向かいます。
戦闘は熾烈を極め、藤堂は戦闘の初期に額を割られ意識を失い、新選組側の事実上の戦力は近藤の他、永倉と沖田の3人だけでした。この戦闘については、近藤が後に故郷に送った書簡の中で「今度の敵は多勢と申しながら、いずれも万夫の勇士、誠に危うき命を助かり申し候」と書いています。
本間精一郎遭難之地
古高俊太郎邸跡
中岡慎太郎寓居跡
坂本龍馬、中岡慎太郎遭難之地
東山界隈
其の二
京都御所周辺
其の二
其の三
其の四
其の三
伏見界隈
其の二
其の三
其の四
淀から橋本
其の二
其の三
大阪の道