島原から七条 其三
不動堂村屯所跡
新選組の三番目の屯所である不動堂村屯所は、広さが三千坪あったとされ、表門、高塀、幹部の部屋、平隊士の部屋、馬屋などを備えた大名屋敷並の構えを持ち、大風呂は一度に30人が入れるほど広かったそうです。この屯所の建設費や移転費は、すべて前の屯所が置かれていた西本願寺が負担したと言います。ここに居たのは1867年(慶応3年6月15日)から伏見奉行所へ警備のために移動する同年12月16日までのわずか半年に過ぎませんでした。しかし、その半年の間に歴史は大政奉還から王政復古の大号令へと大きく動きます。また、新選組の内部でも武田観柳斎の粛正、伊東甲子太郎の暗殺と油小路事件、天満屋事件など、大きな事件が相次いで起きています。


不動堂村屯所跡の位置
不動堂村屯所のあった場所については、正確な場所は特定されていません。ただ、近年、霊山歴史館の調査により堀川塩小路にあったらしい事が判り、2003年(平成15年)6月15日、同地にあるリーガロイヤルホテルの敷地に記念碑が建てられました。
新選組と袂を分かって御陵衛士頭取となっていた伊東甲子太郎は、1867年(慶応三年)11月18日、近藤勇の招きに応じ、七条醒ヶ井にあった近藤の妾宅に出かけます。伊東は近藤や新選組幹部の歓待を受け、大いに語り、かつ、したたかに酒を飲まされ、泥酔させられたと言います。その帰り道、油小路木津屋橋付近(左の写真)にさしかかった時、突如として刺客に襲われます。伊東は、道の南側の板塀の隙間から走り出た槍に、肩から喉にかけて差し抜かれてしまいました。しかし、気丈にもさらに襲いかかって来た勝蔵(元伊東の馬丁をしていたと言います)という男を抜き打ちに切り捨て、近くの本光寺の門前まで歩いたところで倒れ、「奸賊輩!」と叫んで絶命したと伝えられます。この暗殺を実行したのは、人斬りと恐れられた大石鍬次郎ら新選組の隊士で、伊東を呼び出したのは近藤が仕掛けた罠でした。
油小路の決闘跡
左の写真は、本光寺です。傷ついた伊東は、息も絶え絶えになりながらここまでたどり着き、門前にあった石の台座に腰を下ろしたと伝えられます。その石は、今でも境内に残っているとの事です。右の写真は「伊東甲子太郎外数名殉難の地」の石碑の拡大図。
事件は、さらに続きます。伊東の死体の足を切りつけ、死んでいる事を確かめた大石等は、遺体を七条油小路にまで引き出して、放置します。死体を見つけた町役人の注進により、伊東の死は高台寺の御陵衛士達の知るところとなります。新選組の罠があると知りつつも、篠原泰之進、藤堂平助等七人の隊士は、駕籠を用意して遺体を引き取りに七条油小路まで出かけます。果たして、現場で遺体を駕籠に乗せかけたとき、周囲から四〇名を超える新選組隊士が群がり出て来ました。七人はそれぞれに奮戦しますが、服部武雄、毛内有之助、藤堂平助の三名は討死してしまいます。残る篠原、鈴木三樹三郎、富山弥兵衛、加納道之助の四人は、活路を開いて重囲を切り抜け、薩摩藩邸に投じて生き延びる事が出来ました。
伊東と討死した三人の遺体は、その後も御陵衛士をおびき出すために路上に放置されていましたが、五日目に新選組の手によって光縁寺に埋葬されました。そして、鳥羽伏見の戦いの後、四人の遺体は仲間の手によって泉涌寺の塔内戒光寺に改葬されます。これは、毛内有之助が生前から戒光寺の住職に頼んであったことに依ると言われています。
左の写真は、七条油小路通の現状。当時よりずっと道幅が広がり、終日車の列が絶えません。


本光寺の位置


七条油小路の位置
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島原歌舞練場跡
不動堂村屯所跡
油小路の決闘跡
天満屋事件跡
西本願寺



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