島原から七条 其一
島原大門
島原は新選組隊士がよく遊んだ花街で、壬生の南にあたり、新選組屯所から近い場所にあります。また、新選組が結成されるまでは尊王派の志士もよく訪れた場所でしたが、新選組が闊歩するようになってからはあまり近づかなくなったようです。。
島原は、わが国最初の幕府公認の花街で、寛永18年(1641年)に六条三筋町(東本願寺の北側)から移されました。今では面影はほとんど残っていませんが、当時は祇園よりも高い格式を誇っていました。
島原の名の起こりは、幕府の命により三筋町から朱雀野に移転する際に、あまりにも急な移転騒動であったことから、直前にあった九州島原の乱になぞらえて「島原」と名付けられたそうです。
島原の大門(おおもん)はかつての花街の名残を示す数少ない遺構の一つで、慶応3年(1867年)に再建されたものです。


島原大門の位置
輪違屋は、元禄元年(1688年)に創業された店で、300年以上の歴史を誇ります。この建物は、1857年に再建されたもので、1871年に改築され、現在の姿になりました。当時の構造を良く残した貴重な建物であると認められ、昭和59年に京都市の文化財に指定されています。
輪違屋は、揚屋と置屋を兼ね備えた現役の店で、日本で唯一「太夫」が居る所です。太夫は「こったい」とも呼ばれ、正五位の位を持ち十万石の大名に匹敵するとされるほど格が高く、また教養も深かったことから、客の方が太夫の機嫌をとったと言います。
輪違屋の遊女は新選組隊士と関わりが深く、山南敬助と明里、平間重助と糸里、伊東甲子太郎と花香太夫が馴染みの仲だったようです。
輪違屋は営業中の店であるため、非公開です。ただし、客として訪れる事は可能です。
輪違屋


輪違屋の位置
角屋
角屋は、1641年(寛永18年)に創業された店で、揚屋の遺構としては唯一のものとして重要文化財に指定され、現在は「角屋もてなしの文化美術館」として公開されています。
揚屋とは、芸妓などは抱えずに遊興の場所を提供する店の事で、現在の料亭のような存在でした。この揚屋から遊女を抱える置屋に差紙と呼ばれる招請状を出して太夫を呼ぶのですが、この途中、内八文字を踏んで歩く様子を「太夫道中」と言います。
島原では、江戸中期に俳諧が盛んになり、島原俳壇と呼ばれる勢力を形成するに至り、当時の角屋の当主が師として与謝野蕪村らを招いたようです。その蕪村が描いた「紅白梅図」は重要文化財に指定されており、美術館で公開されています。
営業(拝観)時間 10:00〜16:00
定休日 月曜日、7/19〜9/14、12/16〜3/14
拝観料 1000円 小学生500円 中高生800円
2階の「扇の間」の見学は予約制。
別途800円 中高生500円 (小学生以下不可)が必要。
幕末期の角屋は、西郷隆盛ら尊王派の志士が密議を凝らした場所でした。右の写真は、角屋の東北角にある「久坂玄瑞の密議の角屋」と記した石碑です。石碑の左にある立て札には、主として豪商からの軍用金調達のための接待の場として使用したとあります。
また、ここは新選組の隊士が遊んだ場所でもありました。中でも、芹沢鴨との因縁は深いものがあります。まず、1863年(文久3年)6月、新選組の苦情を会津藩に漏らした水口藩公用方に芹沢が因縁を付け、水口藩にねじ込みます。これを納めるために水口藩がここ角屋で酒宴を催し、新選組を招待しました。このとき、酒に酔った芹沢は、角屋の客あしらいに腹を立て、手にしていた鉄扇で店内の什器を片端から壊して回わります。挙げ句の果てに、角屋に対して七日間の営業停止を申し渡してしまいました。今でも角屋には、芹沢が付けたとされる刀傷が残っています。また、芹沢が暗殺された日も、ここ角屋での宴会に参加しています。芹沢は、ここで正体が無くなるまで酒を飲み、屯所へ帰って寝込んだところを襲撃され、命を落としてしまったのでした。


角屋の位置
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角屋
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