伏見界隈其二 
寺田屋
寺田屋は、江戸時代初期から続く船宿です。船宿は現在の鉄道のターミナルのような存在で、淀川の航行権を持ち、船問屋と提携していて、旅人は船宿に入ってから船に乗る事になっていました。船宿は、乗客の食事代、手数料を主な収入源とし、また旅館も兼ねていました。このあたりには、江戸時代には大きな船宿が寺田屋を始めとして6軒あったといいます。寺田屋は、早くから薩摩藩の指定宿となり、繁盛していました。
寺田屋は、また、幕末期に起こった2つの大きな事件、寺田屋事件と坂本龍馬襲撃事件の舞台となった場所でもあります。このため、「維新は寺田屋の一室から始まった」とも言われる事があります。
寺田屋は、鳥羽伏見の戦の際に類焼し、現在の建物は明治の初年に再建されたものらしいのですが、刀傷や弾痕、おりょうが入っていたという風呂や龍馬が脱出したという隠しばしごなどがあり、当時の雰囲気を偲ぶ事が出来ます。
江戸時代の伏見は、大阪と京都を結ぶ淀川の舟運の港町として栄えた町で、港に面して寺田屋のような船宿が何件も軒を連ねていました。淀川の舟運は平安時代以前からありましたが、淀川の治水を行い盛んにしたのは豊臣秀吉で、天正年間には淀川を上下する過書船に対して営業の許可を与えています。「過書」とは関所を通過する免状で、これを備えた船を過書船と言いました。また、この伏見港を開いたのも秀吉で、1594年(文禄3年)に伏見城築城の建築資材を運び込むために大規模な宇治川の土木工事を行い、港を築いています。過書船の制度は、徳川氏の時代になっても引き継がれ、1603年(慶長8年)に徳川家康が過書船に対し朱印状を与え営業許可を再確認しています。伏見大手筋には過書船番所が置かれ、税を課するなどの取り締まりの任にあたっていました。
写真は、寺田屋の前にある寺田屋浜です。当時の船溜まりの様子が偲ばれます。
寺田屋浜


寺田屋の位置
伏見港を賑わせた三十石船は、全長17m、幅2.5mの細長い形の船で、苫で屋根を葺いただけの簡単な作りでした。旅人専用で定員28名、水夫4名、大阪の八軒家との間を一日2回、昼船と夜船が運航していました。料金は江戸時代中期で約五十文でしたが、大阪へ向かう下りの昼船は、川の流れに乗るだけに早く、所要時間が半日と短いうえに船頭も楽であったので、運賃は上りの4分の1だったそうです。反対に、上りの船は川の流れに逆行しなければならず、船頭が陸に上がって船を曳くような場所もあり長時間を要したのですが、寝ている間に伏見に着く夜船は旅人の間では人気があったそうです。乗船場は大坂側が八軒家、道頓堀、東横堀、淀屋橋の4カ所、伏見側は、京橋、蓬莱橋、阿波橋、平戸橋の4カ所にありました。寺田屋浜は、このうちの京橋にあたります。
 
 
三十石船
寺田屋は、また、現役の旅館でもあり、宿泊する事も可能です。

見学料
大人400円 中高生350円 小学生200円 幼児不可
営業時間
10:00〜15:40(月曜不定休)

宿泊料
一泊朝食付 7000円 素泊まり 6500円
小学生以上 4000円 幼児不可
チェックイン  PM5:00〜PM8:00
チェックアウト AM9:00
問い合わせ先 
075−622−0243(AM10:00〜15:40)
寺田屋関連グッズ
寺田屋入場券
寺田屋パンフレット
龍馬キーホルダー
寺田屋は、幕末とほぽ変わらぬ姿で営業されています。「旅籠」という看板にも江戸時代の香りが漂います。
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寺田屋浜
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三十石船
寺田屋
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