室町時代に建てられたもので、清水寺の正門にあたる。2004年(平成16年)に修理が完了し、朱塗の色も鮮やかに蘇っている。














・清水寺
清水寺は、778年(宝亀9年)延鎮上人により開創された。次いで、坂之上田村麻呂が帰依し、堂塔伽藍を整備したという。清水寺は長く興福寺の法相宗に属していたが、1965年に独立し、現在は北法相宗という一寺一宗の宗派である。本尊は十一面千手千眼観世音菩薩。また、清水寺は1994年(平成6年)に「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産に指定されている。
清水寺の寺伝に依ると、奈良の子島寺にあった延鎮上人が、「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢を受け、音羽山麓の滝のほとりにたどり着く。そこで草庵をむすんで永年練行をしていた行叡居士より、観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられた。上人は、その木で千手観音像を彫作し、居士の旧庵にまつったのが、清水寺の起こりとされている。その翌々年、坂之上田村麻呂が、妻の安産のために鹿を求めて入山し、清水の源をたずねて延鎮上人に出会った。そこで田村麻呂は、上人から殺生の非を諭され、自らの行いを悔い、鹿を弔うて下山し、妻室と共に深く観世音に帰依するようになった。田村麻呂は、清水寺に仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置した。その後、上人は田村麻呂と協力して地蔵尊と毘沙門天とを造像してご本尊の両脇士とし、本堂を広く造りかえ、今の清水寺の元を築いたと伝えられる。
清水寺西門と三重の塔(共に重要文化財)
清水寺で最も有名なのが舞台であろう。現在のものは1633年(寛永10年)に再建されたもので、板は総桧板張り、柱には欅が使われている。「清水の舞台から飛ぶ」の諺があるが、実際に飛んだ人も何人か居るという事だ。しかし、多くは下の木がクッション代わりになり死ぬ事はないらしい。舞台からの眺望は素晴らしいの一言。本堂と共に国宝に指定されている。
奥の院から見た清水寺本殿と舞台
音羽の滝
本堂の東の下にある音羽の滝は、延鎮上人が金色の水の霊夢に導かれてたどり着いた地と言われ、清水寺の発祥の元であり、寺名もこの滝から来ている。滝の水は音羽山に出来た断層から湧き出ているもので、「黄金水」「延命水」と呼ばれている。お茶を点てるのには最適の水とされるほか、観音ゆかりの霊水として、この水を飲むと諸願成就の効能があるとされる。
音羽の滝は、本来水垢離の行を行う場でもあり、行を行う者は、ここで滝に打たれては、繰り返し石段を登って本堂へ参るのである。
子安の塔
子安観音を祀り、安産の信仰を集めてきた。産寧坂のいわれの元になったのがこの子安の塔である。明治末年までは仁王門の左手前に立っていた。現在のものは寛永時代に再建されたもので、創建については不詳。重要文化財に指定されている。
清水寺の拝観券
確かめた訳ではないが、拝観券の絵柄は季節によって変わるらしい。
本堂の拝観料
大人    300円
小、中学生 200円
また、1年を通じて様々な特別拝観が行われており、その時々によって拝観料が変わってくるので注意。
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清水寺ホームページ
清水寺西門の位置
清水寺舞台の位置
音羽の滝の位置
子安の塔の位置



世界遺産ホームページ
清水寺西門(さいもん)は、1631年(寛永8年)に再建されたもので、単層、切妻造り、桧皮葺きの三間一戸の八脚門。持国天・増長天を安置している。
清水寺三重の塔は、1632年(寛永9年)に再建されたもので、高さが31メートル弱あり、日本最大級の三重塔である。1987年(昭和62年)に解体修理が行われた。一重内部に大日如来像を祀り、四周の壁に真言八祖像を描き、天井・柱などは密教仏画などで極彩色に彩られている。
舞台に関する話題のページ(「京の伝説散策路」より)
善光寺と首振地蔵
清水寺の仁王門の階段を上がらずに左へ行ったところに善光寺がある。
この寺の左脇にある地蔵は、首振地蔵と呼ばれている。その名の通り首を回すことができ、願い事がある方向に首を向けて拝むと、願いが叶うとされている。参拝には、地図と磁石を持っていった方が良いかも知れない。なお、首は、そっと、やさしく回さないといけない。


善光寺の位置
清水寺の位置
清水寺縁起
岸駒灯籠(がんくとうろう)
清水寺の仁王門の階段を上がったところにある広場の南の端にある。岸駒(1756年〜1838年)は、江戸時代後期の画家で、京都画壇の重鎮として活躍し、その一門は岸派と呼ばれた。特に、虎の絵を得意とし、名人と謳われた。この灯籠に描かれているのは、その岸駒の虎の絵で、あまりの見事さ故に、夜な夜な灯籠から抜け出しては境内を歩き回り、人々を驚かしたという伝説を持つ。夜になると水を飲みに出かけて、朝になると元に戻っていたともいう。また、どこから見ても虎が睨んでいるようにも見える。
右は虎の部分の拡大図。彫りが浅いため、あまり目立たないが、次のページの拓本では見事な姿が浮かび上がっている。
馬駐(うまとどめ)
善光寺の近くにある、馬を繋ぐための施設。清水寺を訪れた貴族や武士達は、乗ってきた馬をここに繋ぎ、あとは徒歩で参拝を行った。現在の建物は室町時代に再建されたもので、正面10.5メートル、側面5メートルの規模があり、同時に五頭の馬を繋ぐことが出来る。重要文化財。


馬駐の位置
岸駒灯籠の位置
岸駒灯籠の拓本のページ
鐘楼は、仁王門の背後の階段を上りきった左側にある。1607年(慶長12年)に再建されたもので。六本柱に貫を三重に通す頑丈な作りになっている。鮮やかな丹塗りと、各所に施された桃山様式の様式の装飾が見事である。
梵鐘は室町時代の作。清水寺の梵鐘は、平安時代から名鐘として知られていたが、応仁の乱によって損なわれ、乱の後、清水寺を復興すべく大勧進を行った願阿上人によって1478年(文明10年)に再鋳造された。
清水寺鐘楼と梵鐘(共に重要文化財)


鐘楼の位置
清水寺轟門(重要文化財)
轟門は本堂への中門で、1631年〜1633年(寛永8年〜10年)に再建された。三間一戸の八脚門で、正面軒下中央に月舟禅師の「普門閣」の扁額を掲げ、左右に持国天像と広目天像を祀っている。


轟門の位置
子安の塔の附近から見た清水寺の全景。手前の谷が錦雲渓で、紅葉の名所として知られる。一連の堂宇は、尾根の上に建っている事が良く判る。
清水寺全景
成就院
清水寺の塔頭。応仁の乱後、清水寺を勧進活動によって再興した願阿上人の住房に起源する。1639年(寛永16年)東福門院和子の寄進によって再建された。江戸時代には清水寺の本願職を担当し、寺の財政管理や修繕を勤めた。
借景・池泉鑑賞式庭園が有名。名勝に指定され、相阿弥原作・小堀遠州の補修とも、松永貞徳の作とも伝えられる。特に月の庭として賞美されている。
幕末に、この院の住職であった月照上人は、西郷隆盛とともに国事に奔走した人で、勤王歌僧として知られている。月照上人は、安政の大獄により追われる身となり、西郷と共に鹿児島にまで逃れたが、遂に逃れきれないと悟り、錦江湾に身を投じ生涯を終えた。清水寺にある二つの茶屋は、この月照上人と深い関わりを持っている。


成就院の位置
忠僕茶屋
鹿児島まで落ち延びた月照上人に、最後まで下僕として付き従っていたのが重助で、上人が錦江湾に身を投じた後、行き場を失った彼は追っ手に捕らえられ、牢に入れられてしまう。この重助が許されて牢から出て来た後、西郷と清水寺の援助で開いたのが忠僕茶屋である。
舌切茶屋
月照上人が鹿児島へ向けて落ちて行った後、幕府はその行方を求めて清水寺の寺男近藤正慎を捕らえ、行き先を聞き出そうとした。しかし、近藤は厳しい責め苦にも関わらず、頑として口を割ることはなく、最後は頭を壁に打ち付け、舌をかみ切って自ら命を絶ち、秘密を守り通した。清水寺では、近藤に免じてその子孫に茶屋を開く事を許し、今に至っているのが舌切茶屋である。


忠僕茶屋の位置
舌切茶屋の位置
アテルイ・モレの碑
清水寺の基を築いた坂ノ上田村麻呂が東北へ遠征したとき、最後まで抵抗した蝦夷の長と副長がアテルイとモレで、田村麻呂の人柄に惹かれて帰順して来た。田村麻呂は、二人の助命を朝廷に嘆願するが、その甲斐なく枚方牧野の地で処刑されてしまった。この碑は、建都1200年を記念して、アテルイの故地水沢市や地元の有志によって建てられたもので、両雄の冥福と恒久の平和を祈るためのものである。


アテルイ・モレの碑の位置
・知恩院
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・高台寺
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 ら二年坂
・二年坂
  三年坂
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 長楽寺
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 歩道
清水寺仁王門(重要文化財)