1861年(文久元年)10月、薩摩藩の藩父島津久光は、幕政改革を目指して上洛を宣言します。久光は、以前、藩内の尊王攘夷派の集団である精忠組が井伊直弼暗殺に荷担して暴発しようとしたとき、彼等を慰撫するために「一朝事あれば、自ら藩を率いてこれに当たる。」と明言した事がありました。このため、この上洛を精忠組は無論の事、各地の尊攘派の志士達はいよいよ薩摩藩が尊王攘夷の為に兵を動かすものと捉えます。中でも出羽の郷士清河八郎は、京都における最も過激な勤王の志士である田中河内介(中山忠能の元家臣)と語らい、各地の勤王の志士を京都に呼び集め、薩摩藩の兵と共に倒幕の兵を挙げるという計画を企てます。田中は青連院の宮の倒幕の令旨を偽造して清河に託し、清河はその令旨を持って九州の志士を糾合すべく旅立ちます。清河は、九州各地を遊説し、特に久留米藩の真木和泉、筑前藩の平野国臣に会って二人の賛同を得る事に成功します。平野は、鹿児島へ飛び、島津久光にあて激励の建白書を上呈すると共に、誠忠組に働きかけ、京都挙兵計画へ参加するよう扇動します。
寺田屋事件
この動きは、噂が噂を呼び、清河達をはるかに超えて燎原の火の様に各地に広がり、明日にでも倒幕の軍が結成されるかのごとく喧伝されるようになります。天下の志士は続々と京都を目指し、土佐藩の吉村寅太郎、坂本龍馬などもこの計画に参加すべく脱藩し、京都に向かったのでした。また、長州藩でも薩摩藩に遅れを取ってはならないと久坂玄瑞を中心に暴発の準備を進めていきます。1862年(文久2年)3月26日、久光は藩兵千人を率いて上洛を開始します。ところが、当の久光には倒幕の意思など毛頭なく、志士達の期待は迷惑至極なものでしかありませんでした。彼は、遠島になっていた西郷隆盛を呼び戻し、大久保利通と共に過激志士達が暴発を思い止まるよう説得に当たらせます。しかし、西郷は説得工作の途中で久光の誤解を受け、再び遠島に処せられてしまいます。
京都挙兵に参加すべく集まった志士達は、田中河内介、真木和泉らを謀主とし、60名に達しようとしていました。そして、その多くは薩摩藩の精忠組の仲間でした。このころ、この計画の発案者であった清河は、皮肉なことにその腹心の本間精一郎と共に仲間から疎んじられ、この挙からは外れています。薩摩藩は、彼等を監視する目的で大阪藩邸二十八番長屋へ収容します。そして、大久保等を使わして暴発を思いとどまるよう慰撫に努めますが、志士達はかえって激高し、計画を実行すべく薩摩藩邸を出て京都へ向かいます。
4月23日、未明に大坂藩邸を脱けた志士達50余名は、淀川を上って伏見に向い、薩摩藩指定の船宿寺田屋に集結しました。彼等は関白九条尚忠を襲撃し、これに呼応して京都にある長州藩が所司代酒井忠義を襲撃する計画だったと言います。これより先、4月16日に京都の錦小路藩邸に入っていた久光は、近衛忠房らに会い持論の公武合体を説いた意見書を提出し、朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けていました。挙兵の報に接した久光は、暴発組と同じ精忠組に属する奈良原喜八郎、道島五郎兵衛、鈴木有右衛門、鈴木昌之助、山口金之進、大山格之助、江夏沖左衛門、森岡善助の8名を鎮撫使に選び、寺田屋に派遣します。彼等は、寺田屋に集結している志士達の中の薩摩藩士達を説得し、久光と面会させるべく藩邸に連れ帰るよう命じられていました。久光自ら彼等に説諭するつもりだったと言います。ただし、彼らがその命令をきかないときは、臨機応変に処置するようにとも命じています。上記8藩士に特に願い出た上床源助を加えた9名の鎮撫使が寺田屋に到着したのは、丁度薩摩藩士や志士団が武装を整え、出発しようとしているときでした。
奈良原喜八郎らは有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮介の4名を階下に呼び出し、君命を伝えて藩邸に戻るように説得しましたが、有馬らは聞き入れようとしませんでした。ついに、道島が「上意!」と叫ぶなり田中謙助の眉間を斬り、薩摩藩士同士の壮絶な乱闘が始まります。柴山は、暴発も捨てられず、かと言って君命にも逆らえず、覚悟を据えて、座ったまま山口に斬られてしまいます。一方、有馬新七の戦いぶりはすさまじいものでした。有馬は道島と渡り合っていたのですが、その最中に刀が折れてしまいます。有馬は折れた刀を捨てるなり道島に抱きつき、道島を壁に押さえ付けながら叫びます。「橋口、おいごと刺せ!」。これを聞いた橋口は、有馬ごと道島を刺し通し、二人を串刺しの様にしてしまいます。その橋口も、やがて乱刃の中に倒れます。さらに、この乱闘中に2階から降りてきた西田直五郎、弟子丸龍助、森山新五左衛門、橋口伝蔵の4人も戦いに巻き込まれ相次いで落命、鎮撫使側の道島と合わせて9人の命が失われました。
寺田屋事件の参加者のその後については、薩摩藩士22名については本国に送還され、また真木和泉ら他の志士達については、それぞれの出身藩に引き渡されています。ただ、引き渡し先のなかった田中河内之介親子と千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門の5人は、海路薩摩藩へ向かいますが、田中親子は海上で斬殺され、死体は海に流されてしまいます。また、他の3人も日向上陸と同時に斬殺されています。なぜ、田中達が斬られてしまったのかは、よく判っていません。一説には、過激志士である田中を鹿児島に入れては、どんな騒ぎが起こるか判らないと懸念した久光が内命を下していたとも言い、薩摩藩の別の要路の指示だったとも言います。
田中河内之介の遺骸は、小豆島に流れ着いたのですが、同地では今に至るまで、河内之介にまつわる様々な怪異談が伝わっているそうです。
二階にいた人々は、挙兵の準備に追われており、階下の騒ぎには気が付かずに居ました。そこへ、奈良原が現れます。志士たちは、奉行所の手先が現れたと騒ぎましたが、奈良原は両刀を捨て、もろ肌を脱いで、座敷に上がります。彼は、暴発を思い止まり、京都の薩摩藩邸に入るよう説得を試みます。志士達は、収まらず、口々に非難を浴びせかけ進発を主張しますが、奈良原は「行くなら自分を斬って行ってくれ。」と、両手を合わして涙ながらに頼みます。既に中心人物の一人である有馬を失い、時機が去った事を知った田中、真木らは、奈良原の言を容れ、一同に挙兵の一時中止を説き、薩摩藩邸に移ることに同意します。この奈良原の説得について、後年暴発組の一人だった大山巌は、「あれには勝てなかった。」と述懐しています。挙兵組は薩摩藩邸に着くと長屋に分宿させられました。一方、この報を伝え聞いた長州藩は、島津久光の真意を知り、所司代襲撃を中止しています。
寺田屋玄関の様子
寺田屋2階の座敷
寺田屋事件で犠牲になった九人の薩摩藩士は、近くの大黒寺に葬られています。
大黒寺は真言宗の寺で、元は長福寺という名でしたが、1615年(元和元年)島津義弘が守本尊「出生大黒天」と同じ大黒天がこの寺にある事を知り、薩摩藩の祈祷所としました。寺では、大黒天を本尊とし、寺名を大黒寺と改めます。このことから、「薩摩寺」とも呼ばれるようになり、この縁から九人の墓所とされました。
この寺には、西郷隆盛と大久保利通が会談に使ったとされる部屋が残っています。また、宝暦年間の木曽川改修工事に携わり、多大な出費を招いたとして責任を取り切腹して果てた平田靭負の墓も、ここにあります。
大黒寺
右の写真
寺田屋事件で犠牲になった伏見寺田屋殉難九烈士の墓。9人のうち道島五郎兵衛の墓は泉涌寺にあります。

左の写真
西郷隆盛がこの墓を建て、また碑に彫られた文字も、自らが書いた事を記した石碑。ただし、墓石そのものは、新しいものに替わっています。


大黒寺の位置
寺田屋の隣にある九烈士記念碑
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