伊豆戦争
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明治以前は伊豆国として東海道の1国を構成していたこの伊豆半島は、各地に温泉が湧き出し日本で有数の温泉観光地になった。
しかしそこに至るまでには、伊豆半島東側で開発の縄張り争いが行なわれていた。
戦後になって大手資本による大規模な開発合戦も行われ、代表的なのは東急と西武の開発競争で、東急は1961年に伊豆急行線を下田まで開通させ、西武は伊豆箱根鉄道駿豆線を軸に、陣取り・誘致合戦を繰り広げた。特に伊豆急行開通後の東伊豆の観光地・別荘地化はめざましいものがあった。この東京急行電鉄(東急)系列の伊豆急行と、西武鉄道(西武)系列の伊豆箱根鉄道が伊豆半島東海岸で繰り広げた縄張り争いを通称「伊豆戦争」と呼ぶ。

しかし近年、伊豆の開発は衰退が激しく、各企業は伊豆からの撤退を決め込む。
今では以前の様な賑わいはなくなりつつあり、当時賑わった夢の跡たけが残されるようになった。

今回ご紹介する廃墟は、そんな時代に建てられたホテル「阪東橋ホテル」
伊豆最怖とうたわれる「稲取隔離病棟」を逸する異様な佇まいは通称「黒いホテル」とも呼ばれた。伊豆山山腹に建つ8階建の建物は、この半島廃墟の中で最大規模を誇った。

廃業後、その建物は長年放置され植物は自由に伸び、野性の動物が出入りできる自然に化していった。
残留物はほとんどなかったが、ここを見ずして廃墟は語れないといわんばかりの荒廃っぷりは見事であった。
しかし、この阪東橋ホテルも所謂「廃墟ブーム」の直前に姿を消してしまった。
消えていく廃墟も多く、一度解体されてしまえばもう二度と見る事はできない。
だからこそ、こうして記録として残っているのも自己満足とは言えいいものだと思う。
栄えた当時を残す事はできないまでも、廃墟として当時ここに何があったかを知る一つの手段として「廃墟写真」が存在する意味も出てくるのだと思う。
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T O P