立花宗茂と武士道(その2)           小柳隆夫 2013

華も実もある戦国一の義勇の将といわれた立花宗茂に注目したのは、、韓国のソウルへ観光で行ったときの事です。バスガイドさんが文禄.・慶長の役の話になった時に、彼女が、「加藤清正・立花宗茂・小西行長・島津義弘などが攻めてきた」と説明がありました。有名な大大名の中で、立花宗茂の名前がありました。朝鮮ではどんな戦いをしたのか。関が原の合戦で西軍であったのに、何故、再び大名に復帰できたか。調べれば調べるほど、すばらしい人物である事が判りました。
 筑後柳川十三万石大名の彼は、僅かな兵力で多くの兵力と戦い、一度も負けておらず、軍事的才能は巣晴らしものがあります。おおよそ三千人の軍勢で国内では秋月種実と島津忠長等の五万の軍勢と戦い、駆逐し、豊臣秀吉から、「その忠義と剛勇、鎮西一」といわれました。朝鮮の役では碧蹄館の戦いで先陣となって、ウンカのようにやって来る明国・朝鮮連合軍十五万の大軍を打ち破り、蔚山(うるさん)城では明国・朝鮮連合軍五万をけ散らし、籠城中の加藤清正を救援し、露梁津の海戦では、軍船が針ねずみの様になりながらも、朝鮮海軍の名将李舜臣を倒し、小西行長の救出を行った。彼は、「戦は兵数の多少ではない、一和にまとまった兵でなくては、どれほど大人数でも勝利は得られない。そのためには、常日頃家臣と親子の様に触れ合い絆を深めておくことである。」と言っている。また、私利私欲では動かない。関が原の戦いの時、徳川家康から五十万石の褒賞で誘いを受けても、大名に取立ててくれた秀吉への恩から躊躇なく大嫌いな石田三成らの豊臣方に付きました。関が原の合戦のとき京極高次の守る大津城を攻め落としますが、その日、関が原では西軍が負け、宗茂は大阪城へ引き揚げます。その途中、三成軍が、勢田の唐橋を焼き落とそうとしており、「橋がないと、庶民が難儀するから」と止めさせました。のちに、この話を聞いた徳川家康は、「聞きしにまさる細やかな心配りよ、立花宗茂は華も実もある武将だ」といって感心した。大阪城では、徹底抗戦を訴えますが聞き入れられず、柳川へ引き揚げます。
 柳川では、攻めてきた三万の鍋島軍と戦いますが、加藤清正の仲介で城を明け渡し、浪人となります。家臣には、再仕官に役立つように感状を渡しました。城を出るとき、大勢の庄屋や百姓達が別れを惜しみ号泣しました。そして、わずかな家臣を引きつれ旅に出ます。宗茂34歳でした。この旅では、家臣たちが人足や虚無僧などして働いて稼ぎ、また、元家臣からの仕送りで生計を立てました。この話を聞いた、徳川秀忠は感激し、立花宗茂を御書院番頭(将軍の警護の役)五千石で召抱えることにしました。徳川家康に弓を引いた宗茂が、三河以来の直参大名より信頼されました。その後、徳川家の為に活躍し、奥州棚倉一万石の城主に任ぜられ、大名として復活を果たしました。その後、柳川の城主であった田中忠政が死ぬと、将軍秀忠は田中家を取り潰し、そのあとの柳川十三万石を宗茂に与えました。秀忠から、任ぜられた時、「家臣が喜びます」と場所をはばからず男泣きをしました。関が原の合戦で城を無くして以来二十年後、もとの城へ復帰しました。多くの譜代の大名ですら、取り潰されている中で、西軍のしかも徹底抗戦した大名が、元の城に復帰する奇跡を起こしました。そして、柳川へ帰還した宗茂を大勢の領民と元家臣が涙を流して迎えました。その後、伊達政宗などと相伴衆(将軍の相談相手)として、秀忠・家光に大切にされました。立花家はその後、明治まで徳川家に忠義を尽くしてきました。本物の武士道とは、死ぬことにあらず、戦になったら勝つことであり、常に正義を実践し、将がその一番の実践者でなければなりません。このはなしは、ホームページ「立花宗茂と武士道」で紹介しています。