延辺と日本
大成学校(復元)と尹東柱詩碑

延辺は豆満江を間に朝鮮側と向かい合っている。したがって、多くの朝鮮人が延辺側に渡ってきた。比較的平坦で肥沃な場所なので、最初のうちは農地を求めて渡ってきたものが多かった。その後朝鮮に於ける日本の勢力が強くなってくると、統治に反対する人々の拠点となっていった。とくに龍井は、軽便鉄道が朝鮮との間を結んでいたので、人の往来が激しかった(現在も鉄道で朝鮮側に渡れる3ヶ所の1つ)。いかに抗日運動の拠点となっていったかは、あちらこちらに運動の記念碑が建っていることで分かる。

当時の日本側の記録には、延辺地域(間島)の反日運動を注視しているものが数多く見られる。詩人でしられる尹東柱もここの出身である。尹東柱は龍井近郊で生まれ、その後ソウルを経て日本へ渡り、治安維持法違反の疑いで獄死するが、彼の出た学校である大成学校(現龍井中学校、大成学校の建物は復元)前に、尹東柱の代表作である「序詞」を刻んだ詩碑が建っている。

龍井は朝鮮側との貿易の拠点であると共に、ロシアへの通路にもなっていた。抗日運動グループも沿海州、とくにウラジオストークを拠点に運動するグループも現れた。このように物流の拠点であったため、日本側はここに領事館を建てた。「日本国民である朝鮮人を保護するため」である。なお、沿海州の朝鮮人はスターリンによって中央アジアに移住させられ、カザフスタンやウズベキスタンのコリョスキーとなっていく。

旧間島日本領事館 抗日運動の記念碑 朝鮮族の集落(入母屋造り)

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