韓国公使館の変遷

江華島条約後、日本に朝鮮国公使館が開設されたのは、明治20年(1887)のことであった。明治19年に朝鮮から李源競が東京に来て、候補地を探して いっ た記録が残っている(日本外交文書)。その後の動きについては、日本の新聞に見ることが出来るので、ここでは東京読売新聞、東京日日新聞の 記事や、外交史料館の文書を元にまとめる。なお、1897年に国号が大韓帝国となり、以降は韓国公使館である。

    明治19(1886)年       李源競ら、公使館の候補地を探す(外交文書)。

    明治20(1887)年1月15日 京橋区築地小田原町(当時の地図では築地南小田原町〔現中央区築地6丁目、7丁目付近〕)に
                    仮移転式。公使は李源競臨時公使であったため、新たに公使を派遣するか、李源競を正式な公使に
                    するかのいずれかが決まってから正式開館。朝鮮初の在外公館)であった。正式開館日は不詳(新聞)。
                    (かつて築地小田原町には金玉均が滞在していた。また、このとき築地入舩町には朴泳孝がいた。)

              8月下旬  公使閔泳駿ら一行が日本に来たが、都合により赤坂区霊南坂町の黒田長成別邸を旅寓とする。
               8月25日 霊南坂町の土地使用契約を結ぶ。期限は1年間(東京都公文書館)。
              9月16日 兪星濬が公使館に到着

              9月20日 閔泳駿、弁理公使(臨時公使の意味)に任命。
                      清国と朝鮮国の関係からしばらく全権公使を派遣出来なかった。
              9月21日 赤坂霊南坂町で太極旗を掲げる。旗の地は中が黄色、縁は空色。

    明治21(1888)年2月    麹町区中六番町吉原重俊邸の買い取り契約(外交文書記録)
              8月初旬 吉原重俊氏敷地を借り入れ(契約は9月6日)
                    (当時の法律では、外国人は土地を所有することが出来なかった)
              9月5日  霊南坂町ら中六番町に移転(1359坪5合9勺)、建物6棟、289坪4合1勺

    明治23(1890)年1月    長崎、神戸に領事館を設置する計画(開館した記録はなし)。    

    明治27(1894)年1月1日  午前7時30分頃出火、8時30分頃鎮火。重要書類以外は焼ける。
                     火元は増築した日本家屋翻訳官室のストーブ。
              1月3日  麹町区三番町26番地(元公使館のはす向かい)に移転(焼け残りの家屋にて事務を執る)。
              1月15日 麹町区永田町1-18 大山陸軍大臣私邸に移る(外交文書記録)。
              6月12日 中六番町に復帰。

    明治28(1895)年4月    永田町の大山陸軍大事私邸か、二番町青木子爵自邸を借用計画。火災後再建が出来ないため。
                    跡地は留学生の集合所にあてる計画(実現せず)

    明治30(1897)年      国号が大韓帝国に変更される。

    明治38(1905)年12月   第2次日韓協約により公使館閉鎖。以後、留学生監督部(「学部」機関)。
    明治39(1906)年11月   日本政府との間で留学生監督部として借用契約を締結(外交文書記録)。

    明治43(1910)年8月29日 韓国併合により朝鮮総督府に移管。
 
    明治44(1911)年末     公使館の建物を壊し、留学生の寄宿舎を建設(明治45(1912)年6月1日完成)。
    大正12(1923)年9月1日  関東大震災により焼失。しばらく更地。のち売却。
  
築地小田原町の公館について、もう少し詳しく確定できるか調査中。また、1894年の火災によって燃えたところ、その後の様子も調べる必要がある。

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