146.「犬に恨みはないけれど!」
10年ほど前のことですが、社用で鎌倉のお得意様のお宅を訪問したことがあります。
今となってはもううろ覚えですが、鎌倉駅からいくらも離れていない高台の、まるで神社の境内のような広大な敷地で、敷地内には樹木が鬱蒼と茂っていた、そんな記憶があります。
日本瓦の屋根のついた門の板戸の隙間から敷地内を覗うと、門から30メーター程離れた所に格子戸の玄関が見えました。
門に取付けてあるインターホンのボタンを押しますと、「どうぞお入り下さい」という女性の声。
私は言われるままに、門の板戸を開けて敷地内に足を1歩踏み入れたその瞬間、多分シェパードと思われる 大型犬が、玄関の方から牙をむき出し、猛烈に吠えながら私めがけて突進して来るのが見えました。
私は大慌てで門から外に飛び出すと、引き戸を閉め、必死にその引き戸を押さえました。
何しろその犬は小熊ほどもあろうかと思われる巨大さですから、引き戸なんか簡単に開けてしまうじゃないかと思ったのです。
門からの脱出が一瞬遅れていたら、ひょっとして私は噛み殺されていたかも知れません。
それ程の緊迫した、恐ろしい場面でした。
そうこうするうちにその家の奥様があわてて走り出して来て、「どうもすみませんね。、繋いであるとばかり思っていました。 でもこの子は人様は絶対に噛みませんから……」とたいして詫びる様子もなく、涼しい顔でおっしゃいます。
これだけの構えの屋敷に住んでいるお金持ちですから、多分性格もおっとりとしていらっしゃるんでしょうが、この時ばかりは私も、顔はてれ笑いしながら、内心はムッとしていました。
「この子? この犬はあなたが腹を痛めて産んだのですか? 噛まない? ご冗談でしょう! この犬の凶暴な面構えは、人を噛み殺して骨までしゃぶりつくしそうですよ!」
早速その犬を鎖でつないでくれましたが、その繋いだ場所が玄関の目と鼻の先で、しかも犬が終始牙をむいて不気味なうなり声を立てているものですから、家への出入りの際には鎖を引きちぎって飛び掛ってくるのではないかと気が気ではありませんでした。
この悪夢もすっかり忘れたつい3年ほど前に、実に不愉快な体験をしました。
ある日得意先のAさんのお宅を訪問したんですが、門を入って直ぐの玄関先に、どう見ても雑種にしか見えない中型犬が放してありました。
その犬が私を見てしきりに吠えるものですから、私も警戒していたのですが、やはり奥様が、「吠えてるんではなくて、じゃれてるんですよ。人を噛むことはありませんからどうぞ……」と言う言葉を信じて敷地内に足を踏み入れた瞬間、いきなり太ももをガブリと咬まれました。
奥様は慌てふためいて、愛犬を蹴っ飛ばすとか、消毒のために私のズボンを無理やり脱がせようとかですっかり取り乱しています。
私は痛くもなかったし、こういう場合は平静を装うのが相手に対する最大の思いやりでもありますので、「まあ、蚊に刺された程度のものですよ。わっはっは……」と笑い飛ばして、大人の対応でその場を収めました。
でもその時に奥様が漏らしたひと言が、私をちょっとばかり傷つけました。
「でもこの犬は、人を噛むような犬ではないんですけどね……」
「ああそうですか。どうせ噛まれた私が悪かったんでしょうよ!」
帰り際に車の中で、噛まれた場所を仔細に調べてみましたら、ズボンの、噛まれた場所に歯形の穴が開き、太ももにも歯型がついて血が滲んでいました。
この話しには後日談があります。
初回の訪問時の用件が、"犬騒動"で、なんとなく話しが中途半端で終わってしまったので、このお宅を再度訪問して話しを詰めることになりました。
今回はさすがに、敷地内に犬は放されていませんでした。
今度も奥様が出て来て、「この間はうちのワンちゃんがごめんなさいね。今日は家の中に入れて部屋に閉じ込めてありますから大丈夫ですよ」のひと言に安心して、リビングへ通されました。
あの犬はたいした犬でもないのに、室内犬だったみたいです。
しかし惨劇は再び起こりました。
用事を済ませてリビングから廊下に出た私と、散歩に行くために娘さんが部屋から連れ出したあの駄犬とが廊下で鉢合わせしてしまったのです。
犬はただ驚いただけのか、またこいつがと思ったのか、再びこの間噛んだばかりの太ももをガブリです。
その後の阿鼻叫喚の修羅場の模様は皆様のご想像にお任せします。
この話しにはまだまだ後日談があります。
半年程経ったある日、私は上司の部長からデスクに呼ばれ、「君はお得意様のAさんと、なにか感情的行き違いでもあったの?」と訊かれました。
「ええ、私には大有りですが、Aさんには何もないはずです……」
「実はAさんと打ち合わせしなければならないことがあって、君に訪問して貰おうと思ったんだが、Aさんが君だけは絶対に来させないで欲しいとおっしゃるんだよ……」
私は内心怒り狂っていました。
自分の飼い犬がこともあろうに2度までも私を噛んだんですから、申し訳なくて私には顔を会わせることができないというのなら理解できます。
「あの方には以前大変ご迷惑をかけたことがあり、再びお会いするのは忍びないので、誰か他の人を寄越していただけないでしょうか?」ぐらいのことを言ってくれてもよさそうなものです。
部長によると、Aさんの口ぶりから、「私が気に入らないから、私を寄越さないで欲しい」みたいな印象を受けたそうです。
今回は私に弁明のチャンスがあったからよかったものの、勤務評定で昇給やボーナスの査定に影響したら、どう責任を取ってくれるんですか? Aさん!
平成16年1月30日