110.「汚い食堂の方がおいしいって、本当?」
「料理は、きれいな店よりも、汚ない店の方がおいしい」とか 、「あの店は改装してきれいになったけど、料理がまずくなった」とか、したり顔で言う人がよくいます。
昔、学生時代のこと。
新宿某町のとある一角に、たまに晩飯を食べに行く定食屋があったんですが、そこで多分アジフライ定食かなんかを食べて、味噌汁も一気に飲み干し、最後にお椀の底に残ったグを箸でつまみ上げました。
そしてその箸の先につままれた「世にも忌まわしいもの」を見て、私は思わず息を呑みました。
そう、それは「ゴキブリ」だったのです。
「ゴキブリ」と言っても、幼虫なんかじゃない。 威風堂々、立派な(?)成虫。
そして全人類から最も忌み嫌われる生物のひとつ。
私は早速女店員を呼び、味噌汁にゴキブリ」が入っていたことを、そこは気の弱い私のこと、他の客には悟られないように小声で告げました。
驚いたのはその時の女店員の対応でした。
私にははっきりと聞こえました。
その女店員が奥の調理場に向かって、小声だが咎めるように言ったひと言が。
「どうしてこんなにいつも、「ゴキブリ」が入っているのよ!」
間もなく新しい味噌汁が運ばれてきましたが、飲めるわけがありません。
同じ鍋で大量に煮込まれて、たっぷりとゴキブリのエキスが溶け込んでいる味噌汁なんか。
それにその鍋には、ゴキブリは私の味噌汁椀に入っていた一匹だけではなく、他に何匹も入っていたはず。
思い起こせばこの食堂は、汚なくて、不潔さを絵に描いたような店でした。
もう憶えてはいませんが、多分どうせ掃除も行き届かないトイレからは、アンモニア臭がほのかにただよってくる、そんな店じゃなかったのかなあ。
出された味噌汁には手も出さず帰ろうとする私に、その女店員はなんら臆することなく涼しい顔で、ちゃんと代金を請求してきました。 勿論私も「お会計して!」とは言ったんですけど。
ゴキブリが入っていたことで、「料理をタダにしろ!」なんて開き直ることは、当時の純朴な私にはとてもできなかったし、多分今でもできないはず。
こんなだらしのない店でも、ことお金に関しては几帳面だったんですね。 ・・ったく。
5年ほど前の真夏の暑い日に、車を運転していた私は急に「冷たい蕎麦」が食べたくなり、横浜の本牧辺りの蕎麦屋に飛び込んだことがあります。
店に入って直ぐに後悔したのですが、店内は冷房の利きが悪くて蒸し暑く、カビ臭い匂いさえします。
客は男の人が1人だけで、店員はいませんでした。
暫くしてこの店の主人にして調理人とおぼしき、むさ苦しさを絵に描いたような中年男が、注文をとろうと調理場の中からもっそりと現れたのですが、その姿をひと目見て私は逃げ出したくなりました。
だってその男は薄汚れたランニングシャツを着ていましたが、体中から噴き出す汗でそのシャツが、濡れてぴったりと皮膚に貼り付いており、しかも汚れたタオルで、しきりに顔を拭っているんだもの。
不吉な予感がしました。
そして間もなく自分に襲いかかるであろう災いにどう対応すべきかを瞬時に判断し、歯痛を装うことでこの災禍を乗り切ろうと決心しました。
私は店主にやっと聞こえるほどの声で、「歯が痛い」とかなんとかブツブツ言いながら、とりあえず「ざる蕎麦」を注文しました。
暫くして「ざる蕎麦」が運ばれてきました。
店主は相変わらず顔に汗を噴き出させながら、「ざる蕎麦」をテーブルに置いて去りましたが、私にはどうしても、調理中や運んでくる途中で、その店主の汗の数滴が蕎麦の上に落ちたに違いないし、又落ちないはずがないと思えて仕方がありませんでした。
そしてその思いはたちまち確信に変わりました。
私ははるか昔の「ゴキブリ混入味噌汁」事件を思い出していました。
そして今は、「汚いオヤジの汗混入蕎麦」を食すのをいかに阻止するかの大問題に直面していたのです。
そこでさっきの、予告の猿芝居が生きてきました。
私は悲痛な覚悟で、「汗混入蕎麦」をひとくちだけ音をたててすすり、そして「イテテテテ」とオーバーに痛がりながら、調理場の中の、ここでも盛んに汗をぬぐっている店主に向かって言いました。
「いやあ、歯が痛くてどうしても冷たいものが食べられないんで、食べ残していくけど、悪いね……」
そして私は、テーブルの上に代金を置いて逃げるように店を出て、無事に危機を脱出することができました。
私は小走りに路上駐車のマイカーに向かいながら、「しかしなんで俺は逃げなきゃならないんだ?」と、我が身に降りかかった不条理に、ただ首をかしげるばかりでした。
私は、汚ない店、不潔な店で食事をして、おいしいと思ったことは一度もありません。
店は汚ないけど料理はおいしいと皆が思っている店は、実際はそんなに汚ないのではなくて、ただ古いだけなのかもしれません。
古くて一見汚なそうに見える店は、トイレを覗いてみるといいでしょう。
トイレの掃除が行き届いていれば、その店はやはり、汚いのではなく古いだけなのです。
トイレはきれいだが、店内や調理場は汚いなどということはあり得ません。
数年前に、「みのもんた」のテレビ番組で、客の入りが悪くて経営不振な食堂に、ある有名店の著名な料理人(店主)が料理の指導に来るというシーンがありましたが、その店主が調理場の中に入るや否や、こんなにコンロ廻りが汚ないんでは教えられないと怒り出しました。
遠路はるばる著名な料理人が指導に来てくれたというのに、調理場の中はたいした掃除もされず、コンロ廻りは油まみれでした。
常識的に考えれば、はるばる著名な料理人の先生を迎えて指導を仰ぐ場合には、調理場を清掃し、コンロもピカピカに磨き上げて待機するぐらいの気持ちがあって当然でしょう。
ましてやテレビで放映されてもいるのです。
そういうルーズな性格だからこそ、おいしい料理が作れないし、店もはやらないのです。
そういう人は先ず、料理人としての最も基本的な資質に欠けていると言わざるを得ません。
有名な落語があります。
寿司屋の主人がトイレへ行って手を洗わないで出てきたのを目ざとく見つけた常連客が、そのことを注意しました。
そうしたら主人は答えました。
「なあに、2〜3個も握れば、手はきれいになるよ」
汚ない食堂のトイレは、便器の廻りは汚れ放題、ロータンクは傾いている、ドアは建付が悪くて隙間だらけ。
手洗いの水の出が悪い、などというケースが共通して多いが、手を洗ってトイレから出ようとして、ドアノブに触れることを躊躇し、ドアを閉めた後では、そのドアノブに触れた手を見つめてしばし途方に暮れるという経験は誰にでもあると思いますが。
平成15年4月21日
追 記
「週刊文春」の夏の特大号(8/14)で、"椎名誠"さんが書いているのを見つけました。
「バケツの中のドロみたいな水で食器を洗い、真っ黒な雑巾のような布で拭いてくださる食堂が、アジアにはいっぱいある」
「中国のレストランはいまだに食べ滓を床にそのまま吐く。
少し上品な人はテーブルクロスの上に吐く。
ハエがたかり放題の食堂もいっぱいある。そういう国のレストランから較べたら、日本の清潔さは世界一かも知れ
ない。」
日本の汚ない食堂さん、自信を持って商売に励んでください。